《 季節の便り 》
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1月号
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平成7年
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4月号
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平成6年
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4月号
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5月号
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6月号
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8月号
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9月号
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10月号
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11月号
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12月号
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冬号 飯豊連峰「樽口峠」

秋号 飯豊連峰「二ツ峰 胎内尾根」

夏号 飯豊連峰「杁差岳のニッコウキスゲ」

春号 飯豊連峰「大石山のハクサンイチゲ」

2010年 秋季号
(撮影者 新潟東事業所 橋本春雄 )
飯豊連峰 大日岳と御鏡雪(みかがみゆき)
飯豊連峰は磐梯朝日国立公園に属し、福島・山形・新潟の三県に跨がっており、朝日連峰と並んで主要な山岳地を形成している。冬季シベリアからの季節風と日本海の湿潤した海水温の影響を受け、この地域は世界でも有数の豪雪地となっている。
飯豊山信仰が盛んであった頃、会津盆地より仰がれる"白いたおやかな山"を、里人は畏敬をこめて御山と呼んだ。先達と呼ばれる法印(半僧半俗の山伏の別
称)に率いられた講中といわれる一団が、五穀豊穣.家内安全.身体堅固を祈って御山に参詣する飯豊詣りが盛んに行われた。
御
鏡雪は御西岳南面に盛夏まで残る雪田の幾つかをいい。この雪田を古鏡に見立てて御神体として崇め、「御鏡雪」と呼んで信仰の対象としていた。先達に率いら
れた信者の掛言葉は風雨の時でも、登りは「御山は繁盛」、降りは「御山は晴天」であったという。後方は飯豊連峰の最高峰大日岳である。

2006年 冬季号
(撮影者 新潟東事業所 橋本春雄 )
飯豊連峰 樽口峠(山形県)
樽口峠はワラビ山として樹木が伐採され、飯豊連峰の山岳展望として飯豊本山から北の杁差岳まで一望できる。最大積雪となる三月中頃、樽口峠に登ると、昨夜
の風雪によるシュカブラ(風紋)と楢ノ木に付いたヤドリギ(ホヤ)が一興を添えていた。眼下はマタギの里として知られる小玉川の集落である。4月も末にな
ると飯豊連峰を舞台にして春マタギの巻き狩が行われる。手槍、村田銃からライフルに、頭領(スカリ)の指揮も身振り手振りから無線機に変わった。勢子(せ
こ)だけは昔と変わらず奇声を上げて熊を追い上げる。人間と熊と山の神の壮絶なドラマが始まる。

2005年 秋季号
(撮影者 新潟東事業所 橋本春雄 )
飯豊連峰 御鏡雪渓(福島県)
御鏡雪渓は御西岳南面に盛夏まで残る雪田の幾つかをいう。
信仰登山が盛んに行われていた昔から、この雪田を古鏡に見立てた御神体として崇め、「御鏡雪」と呼んで信仰の対象としていた。
直下に見える登山道は旧赤谷登拝路(新潟口)で一等三角点である飯豊本山には登らず、飯豊山神社に続いていた。先達に率いられた信者の掛言葉は風雨の時で
も、登りは「御山は繁盛」、降りは「御山は晴天」であったという。後方は飯豊連峰の最高峰大日岳である。

2005年 夏季号
(撮影者 新潟東事業所 橋本春雄 )
飯豊連峰 大日岳(新潟県)
高山植物の咲き乱れる梅花皮(カイラギ)鞍部から飯豊連峰最高峰の大日岳を望む。
ここは石転び沢大雪渓が突き上げ、縦走路と合流するところから十文字鞍部とも呼ばれ、豊富な高山植物とお花畑が広がる別天地。雪消えからハクサンイチゲと
ハクサンコザクラの白と赤の花が敷き詰められ、盛夏に至ると草丈高い花となる。いま咲いているのは、ニッコウキスゲ、タカネツリガネニンジン、エゾイブキ
トラノオである。

2005年 春季号
(撮影者 新潟東事業所 橋本春雄 )
朝日連峰 祝瓶山(山形県)
祝瓶山を彩る新緑のブナ稜線、蛇引尾根より撮影
ある年の秋、この撮影地に近い蛇引清水で野営した。絶対に雨の心配ない秋日のテントなしの露営であった。夜は一人で焚火を楽しんだ。先ず火床をこしらい
てから、集めておいたブナの葉や小枝を小さく折って火種とする。焚火が燃え上がるまでは女性をいたわるように、やさしくやさしく扱う。何回か失敗を繰り返
しながら、ようやく燃え上がるまで小一時間ほど時間をつぶす。燃やす材料が不足になってくると、真っ暗な藪の中に入って太い枯れ木を引っ張ってくる。結構
忙しくも山の夜は更けていった。
今年は数十年振りの大雪とか。新緑のブナ稜線と残雪が織りなす白と緑のコントラスト、豪雪地でも大雪の年にしか見られない光景である。
 
平成6年 4月号
大峰山の山桜
北越後の日本海と並行する平均標高400メートルの山並みが「日本一小さい山脈」 として知られている櫛形山脈で、大峰山はその南に位置する主稜にある。昔から「大峰山
」の山桜として名高く、観桜の名所ともなっていた。 橡平(とちだいら)のサクラ樹林帯はトチやケヤキ、ホウノキなどの高木が多く、お互
いが共生し会って、豊かな植相を何百万年にもわたって育んできた。このことから昭和9 年に付近一帯を、「橡平の桜樹林」として天然記念物に指定され、貴重な遺伝子を後世に
残す宝の山となっている。山麓には地元の人が柴ザクラと呼ぶオクチョウジザクラが多く 、中腹には淡い白色のヤマザクラ、カスミザクラが飾り、そしてひときは鮮やかな紅色の
オオヤマザクラと高度によって分布が異なるという。これらの種は数万年の間に自然交配 され、数十種から数百種の変種に分類されるといわれている。一本松展望台に立つと綿帽
子のようなヤマザクラに混じって、ブナやイタヤカエデの新緑と、鶯色をしたナラやコナ ラが春のハーモニーを奏でている。残雪の飯豊連峰や二王子岳をバックにした、新緑と山
桜が彩る自然のページェントは壮観である。
キクザキイチリンソウ
キンポウゲ科イチリンソウ属 早春の野山に咲く春告げ花である。以前には平野部にも雑木林が多く残っており、春一番に咲くキクザキイチリンソウなどの植物もその気になればどこにでも見られた。そのよ
うな場所は夏場は藪になり、エビネなどのラン科の植物もあったが、野良仕事の農家の人は野の花などには更めて関心がなく、結果的に雑木林の植物は保護されてきた。しかし、
最近は皮肉にも里に近い場所から開発の波に飲み込まれてゆく運命にある。だんだんと家から遠くなってゆくが、まだ近郷には僅かだがキクザキイチリンソウの咲くフィールドが
残っている。3月の末に一度訪ねると、風の寒さに震えながらも小さい蕾は膨らんでいた。私にもやっと迎えた春の知らせであった。花が開くと白色から濃い紫色まで変化が多く
、姿もよく優雅で気品のある花を咲かせる。花は萼が変化したもので寒い日は閉じていて、春の木漏れ日を受けて開く。雑木林は春の暖かい日に、彼女らと逢う秘密の場所にして
いる。

平成6年 5月分
新緑のブナ古木
東北の山が本格的な雪解けの季節を迎える頃、ブナは芽吹きの季節を迎える。まだ根元 に残雪が残るブナ林では、雪椿がしなやかな枝をバネにして、懸命に残雪をはねのけよう
としている。やがて赤く情熱的な花をぽつぽつと咲かせてくれることだろう。林床のカタ クリやサンカヨウなどは、やっとモヤシのような頭を持ち上げ、まだ落ち葉と格闘してい
る。この時期は針葉樹のマツやキタゴヨウをのぞいては、青々とした木々の芽吹きはまだ 始まっていない。ただ落葉広葉樹のブナだけが、いの一番に幼い緑葉を広げ、呱呱(ここ
)の産声を5月の風に宣言をしいてる。やがて「ブナの峰走り」と呼ぶ、やわらかな緑の レースが白い尾根を掛け登ってゆくと、高山にも遅い春が訪れる。奥胎内のブナの古木は
、もうゆうに400年は生きたであろうか。菌が繁殖し「ぶなのあがりっこ」と呼ばれる 瘤の痛々しい姿になっている。かつて鬱蒼として繁っていた冠樹の広がりはギャップと呼
ばれる空間となり、まわりを残雪が白い包帯のように覆っているのが痛々しい。脇にたた ずむと悠久の時間を越えて魂がふれあう。最後の力を振り絞って直立している気力に圧倒
されるのは、巨木のもつ神秘的なエネルギーの恐ろしいまでの力であろう。400年とい う我々の寿命を遙に越えた生命力はまた、優しく人間を包み込んで安寧の時を与えてくれ
る。最近のニュースによると、白神山のブナの原生林も世界自然遺産に登録されるという 。未来に自然遺産を残すことは我々の時代の責任と義務でもあろう。
片栗(かたくり)ユリ科カタクリ属
平安の昔から人々に愛されてきた植物で、古語に「かたかご」という優しい名をもって いる。雪解けの山野に一番早く咲き、春たけなわの時節を知らせる。山地から高山に渡っ
て広く分布し、飯豊連峰では標高1500M付近の亜高山帯まで見られる。林の中より日 当たりを好み、群生したかと思うと消えてしまう癖があって、気難しい一面をもっている
。生態がよく分かっていないといわれているが、実はか弱くても強靱な植物なのである。 しかし、妖艶で端正な姿は春の野草ではトップクラス。みわたす限り一面に群生するさま
は大地の歓びを感じる。

平成6年 6月分
尾瀬.水芭蕉
初夏が訪れると尾瀬が恋しくなる。今では季節を飾る風物詩となった尾瀬の水芭蕉は、人のこころを引きつける呪術的な魔力を持っているようだ。老いも若きも
尾瀬になびく6月の水芭蕉の時期は、一方通行で木道に立ち止まる事さえ許されない。モナリザの絵を鑑賞した時のように、チラッと横目で水芭蕉を見るだけで
終わったなどと、笑えない話もおきている。その超ポピュラーな尾瀬で道を間違い、人を笑えない大失敗したことがある。
尾瀬ガ原から一気に流れ下っている三条ノ瀑布を見物した後に、登り返した登山道の分岐点で、道標を確かめずにうっかり曲がってしまったのが事の始まりで
あった。小一時間ほど下って山小屋が現れた。こんな所に小屋はないはずと地図で確認すると、そこは渋沢温泉小屋というところで、帰路のコースから大幅にず
れていることに気付いた。もう引き返す勇気(根気)もなく、えいままよ、とばかりそのまま下ってしまう。
下
山した所は小沢平(こぞうだいら)といい、人家数件がある集落で、幸いにも茶店が一軒あった。ここまで来れば大船に乗ったと同じ、ビールを飲み飲みゆっく
りバスの来るのを待った。ようやく来たバスの運転手さん曰く、数年前に山岳救助訓練があったとき、警察の隊長がコースを間違えて行方不明になった。隊長が
遭難したと大騒ぎになったとのこと。人ごとではなかったが、地図はよく読むべしとの大教訓であった。
立山竜胆(タテヤマリンドウ) リンドウ科リンドウ属
尾瀬といえば女性に人気のあるのが水芭蕉。尾瀬が原では中田代の下ノ大掘川と、龍宮小屋付近の水芭蕉が見事である。この頃の尾瀬はリュウキンカやミツガシワの群落も素晴らしいので、主役の水芭蕉だけでなく、わき役の花おも愛でてあげた方がよい。
少し遅れて湿原を飾るのは、青い星を散りばめたようなタテヤマリンドウとピンクのヒメシャクナゲである。いずれも愛らしい小さい花なので見つけにくい。両方とも湿地帯か池塘の縁に咲いているから、覗き込んで落ちないように注意してほしい。
かくいう私は橋を渡る高い木道から足を踏み外して、泥田の中に頭から突っ込んだ経験がある。幸い怪我はなかったが、同行の氏は情けない私の姿を見て、俺の仲間でないと知らん顔をしていた。
 
平成6年 7月分
雲海の朝日連峰
昨年の夏は雨ばかりで、山旅においても不作な年であった。例年、気象庁から梅雨宣言という官製の有り難いご託宣があるが、気象学的には梅雨明けがはっき
りしない年もあり、誠に予報官泣かせのようである。このような年は山行においてはなおさらで、秋雨明けまで晴天に恵まれないこともある。この時の山行も雨
中の登行であった。
前日は山菜採りの掛け小屋である角楢小屋に泊まった。二棟ある三角形の一棟は床が抜けて使えなかったが、幸い宿泊者は二人だけであった。大鳥池から入山し
朝日連峰を縦走して来たという大阪の青年は、縦走中はガスで全然視界がきかなかったという。彼は就職をした新任地を松本に選んだほどの山キチらしい。今回
も休暇を一週間ほどとっているので、明日は小国に下って飯豊連峰を掛けるといっていた。
次の日、雨が少し小
降りになった頃を見計らって角楢小屋を出発した。その日は、上半身ハダカになって下ってく登山者に会っただけだったが、小雨降る中にヤケのヤンパチの風で
悠々と下ってゆくのには恐れ入った。それでも一日のフィナーレを祝してか、大朝日岳直下でやっとガスが晴れた。しかし、期待した落日は望むべくもなく、や
がて乳白色の霧に覆われてしまった。
遙か後方に飯豊連峰の山並に霞んで、三角形に尖った鋭峰は祝瓶山である。山形県小国町から入山する蛇引尾根コースは原始性に富み、北大玉山から平岩山と続いて、朝日連峰の最高峰.大朝日岳に接続するダイナミックなコースである。
深山薄雪草(ミヤマウスユキソウ) キク科 ウスユキソウ属
秋田駒ヶ岳、鳥海山、月山、飯豊.朝日連峰などの東北の高山に分布する。
別名、ヒナウスユキソウともいい、草丈が十センチほどで小さくてかわいい。星型に縁どられた白い綿毛は清純で、高山植物の名花とされている。花期は6月か
ら7月中旬と早く、東北では梅雨の真っ最中と重なる。山頂付近の乾いた草地に多く見られ、朝日連峰は本邦随一のミヤマウスユキソウの大群落で知られる。
岩手県の早池峰山に特産する早池峰薄雪草は、アルプスの星エーデルワイスに近縁といわれ、山を愛する女性が憧れる。属名をギリシャ語でライオンの足と名ずけられている。山猫のような可愛いライオンを想像して見るのも楽しい。
 
平成6年 8月分
飯豊連峰の朝
山の朝は早い。夏山では午前4時を過ぎると、東の空に黎明が始まる。沢鳴りの音が風に乗って微かに聞こえ、静寂な朝の空気を震わすように遠くから、そして
近くからウグイスが囀り始めると、静かな山の黎明はにわかに緊張し始める。暗く暗紫色の一色だった空の一角から光りのオーラ(後光)がさして、次第に朝焼
けの茜色に変化してゆく。やがて、低くたなびいた雲海の上部が黄金色に輝き始めると、一瞬のまばゆいばかりの光を放ちクライマックスの御来光となる。地球
誕生から変わらぬ天体の法則が、今日も荘厳な日の出となって朝が訪れた。
高気圧の晴天に恵まれたこの日は、
内陸部の小国盆地がスッポリと濃い霧に包まれていた。下界の盆地ではこの霧が晴天の印なのであが、日が昇り始めるとやがて霧は文字通り雲散霧消する。山で
はこんな無風快晴の日にはめったに巡り会えない。しかし、登山者は不幸にして訪れた朝が、ガス(霧)であろうと雨であろうと、他人や天を恨みはしない。素
晴らしい朝を迎える楽しさ、素晴らしい景色に会える幸福、そして人生にも似た素晴らしい邂逅(かいこう)があるから、人は山をめざすのだろうか。
飯豊竜胆(イイデリンドウ) リンドウ科(リンドウ属)
青紫色の星を散りばめたようなイイデリンドウは、ミヤマリンドウの変種で飯豊山地にのみ見られる特産品である。両種は混生しているので、始めての人には区
別がむずかしい。しかし、注意して観察するとイイデリンドウの方が花冠が2〜3cmとやや大型で、花冠の間にある副片が直立しているのでミヤマリンドウと
区別できる。
だが花が大型といっても背丈がせいぜい10cmたらずであるから、好奇心といたわりの目で捜さ
ないとと見つけられない。飯豊連峰を縦走して来て、憧れのイイデリンドウに一目も会わなかったと残念がる人がいる。その人は運が悪かったのではなく、天候
が悪くてイイデリンドウが恥じらっていたのである。陽が照らないと花が開かないのは、リンドウ種の特徴である。
 
平成6年 9月分
朝日連峰.大鳥池
大鳥池は山形県最大の湖で、朝日連峰の標高1.000mに位置する高山湖である。鬱蒼たる原生のブナ林に囲まれた神秘の湖を、地元では畏敬をこめて大鳥湖
と呼んでいる。 朝日連峰の山懐に抱かれた大鳥池は、氷河期において崩壊した堰止湖といわれ、周囲約7Kmほどの大きさがある。静寂の中にたたずむ湖は、
以東岳や化穴山などの山々を湖面に映し、原生のブナ林から流れだす栄養豊富な水は青々と深く、母体に宿った羊水のように湛えている。
以東岳(1,760m)から俯瞰する大鳥池も又圧巻である。正に熊の皮を広げたように見える姿は、天の絶妙な配剤によるものであろうか。この大鳥池を一躍
有名にしたのは、幻の大岩魚で知られるタキタロウである。大鳥池が形成された太古の昔に、陸封された岩魚が独自に進化して、巨大岩魚タキタロウになったと
いうのである。地元である大鳥集落には近年タキタロウ会館がオープンした。タキタロウ神社が祭られ、タキタロウ祭や、タキタロウ音頭と観光誘致に力を入れ
ているが、若者の多くは村を離れ、村の宝である小学生も2人に減ったという。先祖から伝えられた山棲の生活が失われ、この桃源郷にも確実に過疎の波が押し
寄せている。
深山鳥兜(ミヤマトリカブト) キンポウゲ科トリカブト属
トリカブトの花は舞楽に冠る帽子に似る。そら豆の形をした花は澄んだ青色で、1m以上もある茎の上部に付ける。秋の山路を行くと花の重みで時にしなだれ
て、秋の風情を感じさせるおもむきがある。山麓から高山まで垂直分布が広いが、高山帯のものは背丈がやや低く、花期は8〜9月と遅く高山植物のフィナーレ
を飾る。
全草に毒があり、特に根や実は猛毒で、アイヌは弓矢に塗って熊狩りに使ったという。春はニリンソウ
にそっくりな芽を束生するので区別が難しい。2〜3年前に家内と山菜採りに行った時のこと。家内がニリンソウと思って採ってきたのがトリカブトであった。
これは少しおかしいと試しに噛んで見ると舌の感覚がなくなり、唇までピリピリと痙攣(まひ)する始末。しばらくは何を食べても口が直らなかった。これを我
が家の「逆トリカブト事件」という。
 
平成6年 10月分
錦繍の山並み
日本列島の自然は四季の変化があって素晴らしい。春は桜前線が北上すると、日本国中が桜一色になり、まさに錯乱(さくら)状態におちいる。反対に秋の紅葉
前線は北から南に南下すると同時に、高山から色づき始めた紅葉は、約一カ月ほどかけて平場に垂直移動する。奥(オク).峠(トウゲ).峡(キョウ).湖
(コ)と名の付く観光地は、そぞろ神に引かれるように紅葉狩りに繰り出し、日本列島の秋は狂乱(けんらん)豪華な人間模様にいろどられる。
表紙の写真は下界の喧騒と打って変わって、飯豊連峰の静かな山並みの錦繍である。緑色のチシマザサの中に、季節はずれの赤い花に見えるのはナナカマドの実で、ほかにミネカエデ、ドウダンツツジ、ミヤマナラなどが赤や黄色に山並みを染めている。
巻雲たなびく空の果てを行く風に誘われ、のどかで楽しい山上の縦走路は行き交う登山者もなく、贅沢な秋の好日を一人じめにする。風景写真には偏向フィル
ターが必携とされているが、この写真も勿論偏向フィルターを使っている。フィルターのお陰で葉のテカリが抑えられ、紅葉本来の鮮やかな色が出てきた。今年
の秋は貴方だけの、奥.峠.峡.湖(おくとうげきょうこ)ちゃんを捜して見てはいかがでしようか。
山母子(ヤマハハコ) キク科ヤマハハコ属
この写真は突然の寒さで、ヤマハハコがドライフラワー化したものである。低山から高山まで見られ、高山植物としてはポピユラーな植物である。淡黄色の小さ
な花の周りに、乾いたような白い総苞が囲み、ドライフラワーにしても美しく、土産物の押し花の栞として使われる。春の七草に数えられる母子草(ハハコグ
サ)は近種。
以前、ある花好きのご婦人から、山母子に対し山父子(ヤマチチコ)があるとしつこく聞かれた。
図鑑で調べると「ヤマハハコは雄しべと雌しべのそろった両性花と、雌しべだけの雌株がある」とあり、雄株だけの花は存在しない。したがって、ご婦人が期待
する山父子(ヤマチチコ)という名も残念ながら存在しないし、山母子があるから山父子もあるという発想じたい可笑しい。
 
平成6年 11月分
晩秋のブナ林
移動性の高気圧に覆われた晩秋、飯豊山麓のブナ林を散策した。黄葉をおえたブナ林はすっかり葉を落とし、傾いた西日が明るい森に差し込んで、劇的な光景は
刻々と変化していった。早く写真を撮らなければと思っても、一般的な風景と違って樹木の写真はなかなか絵にはならないものだ。まして強い斜光がブナ林に
入っているので、コントラストが強い写真となってしまい、晩秋のブナ林の雰囲気はまったく出ないであろう。
シャッターを押すのをためらっていると、あれよあれよという間に秋の陽は山に隠れてしまった。今日の撮影もこれで終わりと、薄暗くなる前に焼けくそで撮っ
た一枚である。白いブナの樹肌がトワイライトに照らされ、静寂なブナ林の作品となったのは、まったくカメラのオート機構と、最近の高性能のフィルムの技で
ある。カラー写真というと自然な色と思っている人が随分多いが、実は目に写らない色もフィルムには写る化学的な色なのである。
一年間の恵を大地に帰したブナの落葉は、ふかふかな森のベッドとなり、動物達を冬眠の夢に誘っていることだろう。ブナの小枝もまた、春までの長い眠りに着
いているように見えるが、赤い鱗片に覆われた冬芽は、寒い冬の間でもいっときの休みもなく育まれ、残雪に萌え出る春の日を待っている。
紫式部(ムラサキシキブ) クマツヅラ科ムラサキシキブ属
源氏物語の作者である紫式部に由来する。秋に小枝の腋に小粒の紫色の実を結ぶ。
昨年の晩秋、家族で新潟と山形の県境にあたる旧米沢街道を踏査した。榎峠、大里峠、萱野峠、朴ノ木峠を越え小国に下山する計画である。
落葉した峠路にはムラサキシキブの赤紫の実が秋の日溜まりに輝いていた。ほうずりしたいほど、ほのぼのと暖かさが感じられる、晩秋のひとときであった。
しかし、秋の日は容赦なく山の端に傾いて行く。案の定、最後の朴ノ木峠で日没を迎えてしまった。真っ暗闇の中、まだ遠い終点めざして黙々と歩いた。誰も迎えてくれる人もなかったが、親子4人ともに峠を越えた絆と満足感でいっぱいであった。
 
平成6年 12月分
初冬の稜線
東北の山は総じて山容がなだらかで優しい。花崗岩の一大隆起山塊からなる飯豊山地は雪による凍結.融解が繰り返された結果、山容がたおやかで女性的な山が
形成されたという。飯豊本山から御西岳にかけての山上平原に代表する平坦地などを、専門用語では隆起準平原と呼んで、造山運動のころ隆起したままの状態を
残しているといわれている。
しかし、連峰のほぼ中央に位置する北股岳(写真右側)は日本海から吹きつける偏
西風により、片面の山稜が荒々しく削り取られ、著しく非対称な地形になっている。これは冬季、多量の雪が雪庇(せっぴ)となって山形県側に張り出す為、春
になって崩落する際に削りとられた痕を残している。中央部から筋状に流れ下る沢は石転び沢で、冬の間は雪崩の巣となり膨大な雪塊が谷を埋めつくす。春先に
はデブリと呼ばれる雪崩の先端が、はるか下流域まで達し、自然の凄まじさを物語っている。
撮影地は梶川尾根
の滝見場からであるが、ここから対峙する石転び沢は、目の錯覚によるものであろうが、ほぼ垂直に谷を登っている感じがする。盛夏の頃、梶川尾根から見る石
転び沢雪渓は、昇天する白龍の如くに例えられる。主稜の鞍部は十文字鞍部と呼ばれ、縦走路が交差する。鞍部を挟んで左側は梅花皮岳で、右は北股岳である。
蝦夷譲葉(エゾユズリハ) トウダイグサ科ユズリハ属
エゾユズリハはユズリハの変種で、日本海側の山地に多く生え、4〜5Mの豪雪に耐える日本海要素の植物である。新雪の頃はチシマザサと共に冬でも青々と
して、雪とのコントラストが美しい。東北人と同じく、雪の下にじっと耐えるのは植物の知恵で、雪の布団が冬の寒さから身を守ってくれるからである。
ユズリハが正月の飾りに使われる由来は、若葉が伸びてから古い葉が落ちるということで、親が成長した子を見届けた後に譲(ゆずる)のに例え、めでたい木とされている。
今の様に核家族の時代とは違い、子、親、祖父と大家族で生活していた時代は、家族の繁栄を願う豊穣儀礼の一つとして脈々と続けられていた。

平成7年 1月分
御来光
高山で見る荘厳な日の出を御来光、御光などという。御来光は富士山にかぎるかどうか知らないが、夏の富士登山の目玉は山頂で拝む御来光であろう。日の出の
瞬間には期せずして、万歳の声が上がるという。これは富士山だけの習慣であろうが、日本一の富士山なればこその行事であろう。他の山では御来光のときに、
万歳の声など聞いたことがないし、さぞ興ざめして厳粛な御来光をぶち壊しにしてしまうおそれがありそうだ。普通は荘厳な高山の御来光は、一幕のドラマのヒ
ロインを見るように静かに観賞しているようだ。
写真に撮る場合は、光芒(こうぼう)が長く延びる一瞬が勝負
である。この光芒を入れないと画竜点睛を欠く、つまらない写真となる場合が多い。それから、御来光が昇ると感激するのか慌てるのか、機関銃のようにパチパ
チ写真を写す人がいるが、太陽を真ん中に入れた日の丸写真のオンパレードとなってしまう。
御来光というと何
か仏教的な考え方が感じられるが、仏教伝来以前の自然崇拝に起源する人間の根源的なものであろう。日本と中国の関係では上古、中国は日本を「日の出(い)
づる国」として美称した。遣隋使として派遣された小野妹子が中国を「日の入る国」と讃えたお返しであった。中国は、阿倍仲麻呂、空海と引続く遣唐使をも厚
く寓し、毛ほどにもなかった日本に多くの文化を与えた。中国を中心とする中華思想の威光でもあった訳である。
福寿草(フクジュソウ) キンポウゲ科フクジュソウ属
年末に正月の祝い花として、市などに一芽いくらの値段で売られている。樺太.満州.東シベリアから日本全土に分布するという。西日本より北日本に多いというが、福寿草という慶賀な名前がわざわいしてか、自生地は極めて少なくなっている。
佐渡では雪割草と一緒にいたる所に見られ、畑の中まで侵入し半ば雑草化しているのには呆れる。地元の人には特別関心がないようで、福寿草にとっては天国である。
自生地での開花は3月過ぎてからで、日が照らないと黄金の花びらは開かない。私が野性の福寿草を見たのは、佐渡以外はいずれも人里に近く、自生している物ではなかったかも知れない。
 
平成7年 2月分
厳冬の山
気象庁の長期予報によると、今年も8年来の暖冬と予想されていたが、見事に外れて例年の寒さに戻ったようである。我が国の日本海側は世界でも有数の豪雪地
といわれ、かつては冬季に交通路が途絶え陸の孤島と化した。これは日本列島が約1500〜2000万年前にユーラシア大陸から離れ、内海としての古日本海
が誕生した頃、地殻変動で朝鮮海峡がさらに開き、古日本海に対馬暖流が北上したことに起因している。
以
来、日本海側には豪雪という宿命的条件が備わったのである。少なくとも東北日本は縄文の間氷期から数千年にわたり、多雪と厳しい寒さに見舞われる生活をし
いられてきた。わけても、八甲田山における雪中行軍の大量遭難は、東北の厳しい風土を物語る象徴的な事件となった。明治35年、雪中行軍を敢行した青森歩
兵第5連隊の上に猛吹雪が襲い、死者199名、生存者は僅か10名という大惨事がおこったのである。この遭難事件の背後には、日露戦争前夜という世相が日
本を覆っていた。日本は日清戦争において領有した僚東半島を三国干渉で放棄したことにより、満州において南進するロシアの脅威にさらされた。ロシア撃つべ
しとの騒然とした世論の中で、対露戦を想定した雪中訓練が計画されたのである。
歴史が証明するところによる
と、日露戦争は日本が辛くも勝利した。厳冬期における東北の山は今も昔も変わらない。八甲田山中に死の彷徨をしたように、人知を寄せつけない厳しさが冬山
にはある。自然の脅威と威厳を備え、山は静かに横たわっている。 (二王子岳から飯豊連峰を望む)
山繭(ヤママユ)
地方名でヤマカマス、ツリカマスとも呼ばれ、無病息災のお守りとして珍重される。
晩秋から冬にかけて、コナラやクヌギの小枝にぶら下がっている繭が目立つ。鮮やかな緑色を春先まで残している繭もあるが、宿主は11月頃すでに巣立ちをして空き家となっている。
先日、妻と冬の低山ハイクに出かけたとき、山繭のついた小枝を手折ってザックの背に差して下山した。しばらくして気が付くと、いつの間にか山繭の小枝は無くなっていた。冬山からの贈り物を無くしたようで、チョッピリ残念であった。

平成7年 3月分
早春の佐渡
「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」、九州太宰府に左遷された菅原道真が失意の内に詠んだ和歌である。学問の家に生まれた道
真は幼少より文才の誉れ高く、左大臣藤原時平と並んで右大臣に任じられた。しかし、時平の妬みにより太宰府に流配になった丞相(じょうしょう)道真は、二
度と都に帰ることはなかった。梅の香りを賞でながら、永遠の輪廻を歌に託して、道真は彼の地に没したのである。
写真は、太宰府ならぬ春まだ浅き、佐渡に降ったお彼岸のなごり雪である。ふと立ち寄ったお寺の庭に、ほころびかけた梅の蕾が突然の淡雪にふるえていた。近
くに能舞台があった。降りしきる雪はあたりの音を消し去り、白雪は舞台の裾まで振りかかっていた。開け放された能舞台には、青松が描かれた幕が大きく風に
揺れて、静寂から微かな動へと、今にも能役者が出てくるような、幽玄な能の世界が展開しているように思えた。
順徳上皇のような貴種流離の貴人や、日蓮上人などの多くの宗教者、政治犯が佐渡に流されている。能楽の創始者、世阿弥も晩年佐渡に流され、不遇な身をかこったといわれる。なにげない所に歴史が残り、なにげない土地に郷土芸能が伝えられる、佐渡は文化史の宝庫でもある。
雪割草(ユキワリソウ) キンポウゲ科
正式な名前は葉の形から三角草(ミスミソウ)という。春一番に雑木林の枯野に、宝石箱をひっくり返したように、白、赤、紫色の目も覚めるような鮮やかな
花をビッシリと敷きつめていた。まさに雪消えを待って咲く、春を呼ぶ雪割草という名がぴったりする。
暖流の影響か外海府にユキワリソウの大群落が多くあった。一夜の宿を請うて立ち寄った民宿には、若奥さんが「あいにく新鮮なお魚がないので」と、京なまり
のやさしい地言葉で丁重に断られる。ほんとに申し訳なさそうな感じ。良かったらと、裏山から採ってきた行者ニンニクの若芽を一掴み頂く。
以前、尾瀬(国立公園特別区)で行者ニンニクの確信犯を犯しているので、後ろめたさを感じるが有り難く頂戴する。次に見つけた民宿のおばさんに頼んで、行者ニンニクを酢味噌和えにしてもらう。早春の佐渡を巡る花と人情のセンチメンタルの旅であった。

平成7年 4月分
十三峠の山桜
日本は山国であり、将来とも変わることはないだろう。徒歩としての交通機関しかなかった頃、峠は村々を最短距離で結ぶ現在のトルネルであった。人々が生活
する峠は喜びや別離の境でもあったが、新しい情報や物資も峠を越えてやって来た。峠とはタムケ(手向)の転化した言葉という。家内安全を神仏の加護に祈っ
て手向た所であったから、日本人は尊敬と愛着をこめて峠(とうげ)という、優しい言葉と国字を当てたのではないか。
藩政時代に越後と内陸の出羽(置賜地方)を結んでいた道を、米沢街道(越後街道)と呼んだ。山形県小国盆地を中心として、米沢まで連続して十三の峠を数えたので、別名十三峠街道と呼ばれ親しまれていた。
この優しくロマンあふれる名前に魅せられ、荒川の支流である横川を歩いた。遠目にも色鮮やかな大山桜と山桜が、渓谷の清流をはさんで咲いていた。一幅の日
本画を見るようであった。昔の街道はここから敷石の道で名高い黒沢峠を越え、市野々集落に出て今は車道となっている桜峠を越える。峠からは全山新緑の中に
普段は目に付かない、山桜が一斉に咲き染めた”桜”という、美しい名前の集落が眼下にあった。
桜あれこれ バラ科サクラ属
日本人は古来より桜の花を愛で、桜木に人生の生き方を託してきた。万葉、古今集で歌われた桜は、吉野山に代表される山桜であり、関東では八重桜であったと
いう。現在公園などで見られる絢爛豪華な染井吉野は、明治期に命名されたもので、先祖が見た桜ではなかった。本居宣長の「敷島の大和ごころを人問はば朝日
に匂う山桜花」も、日本人の心を端的に表した名句といえる。
東北で普通に見られる野生種の桜を何種か紹介する。オオヤマザクラは紅山桜とも呼ばれ花びらがピンクで赤い。ヤマザクラは白山桜と呼ばれ、里山に多く見られる。ほかに、花期がおそく花と葉を同時につけるカスミザクラ(霞桜)が一般的な高樹である。
低木では、チョウジザクラ(丁字桜)に、その変種であるオクチョウジザクラ(奥丁字桜)が、日本海側の多雪地に咲いている。写真はぼってりとした花びらが何とも可愛いオクチョウジザクラである。サクラは浮気ものらしく、山野では自然交配した種が多くの雑種を作っている。

平成7年 5月分
ブナ原生林をゆく
平場では初夏の陽気に汗ばむ頃、東北のブナ原生林は芽吹きの季節を迎える。朝日連峰のブナ原生林は、世界自然遺産に指定された白神山地のブナ原生林に次ぐ
規模を誇り、多雪の日本海側気候の影響を受け、標高1200m付近まで優先種を誇っている。ブナ、ナラを主体とする樹海は、東北の山の主要な景観を形作
り、山麓に豊かな恵みを与えてくれた。
5月下旬にブナ原生林を訪ねて、朝日連峰の秘境といわれる大鳥池をめ
ざした。泡滝ダムからの登山道は残雪で埋められ、片方が東大鳥川に流れ落ちる三角形の斜面をトラバースする。スリップすれば人知れず谷底に滑落すること必
定である。狭隘な危険地帯と格闘している頃、後方の尾根に朝日が差し込んできた。日和は絶好の五月晴れである。冷水沢と七ツ滝沢の吊り橋は永久橋にかわっ
て、徒渉(としょう)する心配もなく通過することが出来た。七ツ滝沢で下山するパーティーに出会う。昨日は悪天候で道に迷って難渋したとの事。
到着した標高約1000mの高山湖大鳥池は、まだ見渡す限り白一色の銀世界の中に、淡い緑色のブナの幼葉が薫風にそよいでいた。ブナの根元がスツポリと
2mも雪が融けている、「ブナの根びらき」も見事である。これは樹の温もりで融けたものでなく、風の作用で融けるものという。大鳥池はまだ全面凍結して湖
面は氷で覆われていたが、ゆっくりとした自然の営みを待って、神秘の姿を現すのはもう少しである。(写真は険悪な渓相の東大鳥川)
ニリンソウ (二輪草)キンポウゲ科
雪解けを待って株状の根生葉がかたまって生え、背は伸びて高さ20cm程の丹精な姿になる。花は白い小さな花を二つ付けるので、ニリンソウと呼ばれている
が、中には一輪だけのものや、三輪花びらを付けるものがある。春先、陽の良く差し込む林床や谷間に群生し、天気の良い日は花びらを上に向け、背伸びをして
いるような姿で咲いている。
アプローチの樹林帯から残雪帯に入る間にカタクリ、エンレイソウ、サンカヨウ、シラネアオイなど共に見られる。時には山麓の田んぼの畔にも咲いていることもあり、覚えやすい名前の野草である。

平成7年 6月分
はるかな尾瀬
♪
夏がくれば♪思い出す♪はるかな尾瀬♪遠い空。作詩 江間章子による「夏の思い出」の一節である。ほのかな初恋にも似たメロデーと、流れくる情景が瞼に浮
かぶ美しい詩は、思わず口ずさむ初夏の叙情歌となっている。尾瀬は女、子供の行く所と決めつけ、シニカルに見つめていたのが青春時代であった。(本当は連
れてゆく彼女がいなかったのだが)ある時、山岳雑誌に初秋の南会津の山と湯を訪ねる特集があった。茅葺の民家や蕎麦を脱穀している風景に誘われ、友人と二
人で南会津の旅を計画した。お互いに独身の気軽さから汽車の旅に決め、国鉄会津線の会津田島で下車、中山峠は乗合バスで越えた。砂利道に雉が2〜3羽でて
来たのを記憶しているので、旧中山峠を越えたのであったろうか。 その日は湯ノ花温泉の民宿に泊まった。翌朝、都会帰り風のサングラスを掛けた兄さんが、
田代山の入口まで車で送ってくれるという。お蔭様で田代山湿原と帝釈山を歩き、木賊(とくさ)温泉の岩風呂に浸ることが出来た。次の日、せっかくここまで
来たのだから尾瀬に行こうと言うことになり、檜枝岐村から尾瀬ガ原に入った。紅葉の裏燧林道と違ってすすきケ原となっていた尾瀬ケ原は、殺風景で何の印象
も残らなかった。
翌年、会津駒ガ岳に登った後、単独行動で沼山峠から尾瀬沼に出た。ミズバショウとワタスゲ
の季節は過ぎていたが、緑の湿原に樺色のレンゲツツジが印象的で、高山のお花畑とは違う、母のような優しい湿原がどこまでも広がっていた。この”はるかな
尾瀬”との出会が、私の花の山旅の始まりでもあった。(燧岳から梅雨空の尾瀬ガ原を俯瞰する)
水芭蕉(ミズバショウ) サトイモ科
尾瀬の湿原に大群落を作る花はミズバショウ、ニッコウキスゲ、ワタスゲなどである。中でも、白いセーラー服を着たような水芭蕉はアイドル的存在で、老若男
女を問わず人気がある。この白い花弁は仏炎包(ぶつえんぽう)と呼ばれ、花ではなく萼の変化したものである。別名「牛のベロ」と呼ばれるように花が終わる
と、葉は伸びつづけ巨大な葉っぱになる。清楚な乙女だったものが、やがて頼もしい姿に変化して行くのを見ていると、やはり水芭蕉は純白のままの姿を想像し
ている方が良いのかも知れない。

平成7年 7月分
秀峰.鳥海山
庄内平野から眺める鳥海山は、山頂から弧を引くように日本海に流れ落ちる、秀麗なコニーデ型の山容をしている。霊峰月山と対峙した鳥海山は出羽富士とも呼
ばれ、共に庄内平野の鶴岡付近から眺められる。若い頃に庄内地方を彷徨した作家の森敦氏は、鳥海山と題する単編に「出羽を前羽と後羽に分かつ」と書いてい
る。文字どおり鳥海山は山形と秋田の境をなしている。
元禄二年、奥の細道を旅した松尾芭蕉は、この鳥海山麓
を通り象潟に遊んでいる。松島と並んで象潟は八十八潟九十九島と称され、芭蕉の奥羽行脚の目的地であった。雨後の蚶満寺では「象潟や雨に西施がねぶの花」
と詠んでいるが、不思議なのは秀峰鳥海山を詠んだ句が一つもないことである。もっとも「雨朦朧として鳥海の山かくる」とあるので、相当な雨であったらし
い。芭蕉の旅は歌枕を訪ねる旅と共に、死出の巡礼の旅でもあったから、死の山といわれた月山に比べ、生の山といわれる鳥海山はあまりにも再生的で明るく、
芭蕉が考えていた奥の細道のイメージに会わなかったのかも知れない。
私が鳥海山に登ったのは梅雨の中だるみ
の7月中旬で、もっともポピュラーな鉾立コースからであった。笹原の登山道を一時間程歩き、平坦部に出た時、前方から四つんばいになって歩いて来る老人に
出会った。近づくと両手に短い棒を杖がわりにして、這うように歩いて来た。あまりにも異様な姿に驚いていると、先方から話かけてきた。監視員の腕章をはめ
ていた老人は、別れ際に「気をつけていかっしゃれや」といって、転ぶように下っていった。人生の年輪を宿した後ろ姿が目に残っている。 (御浜小屋付近の
お花畑)
鳥海薊(チョウカイアザミ) キク科
高山帯の草地に生える大型のアザミで、チョウカイフスマと並んで鳥海山特産の高山植物である。高さ1〜1.5mで濃紫色の頭花は下向きに咲く。アザミ属の
仲間は鋭いトゲがあり簡単にアザミ類と識別できるが、葉の切れ込みになどに個体差があり、分類のむずかしい植物とされいてる。
その点本種はフジアザミに似て大型種であるほか、屈強で威圧的な感じがする。花の色や姿はお世辞にも綺麗とは言われないが、一目見ればチョウカイアザミとすぐ同定できる豪快なアザミである。

平成7年 8月分
上高地からの便り
今年6月、信州の遅い春を求めて、上高地に出かけた。自らも穂高の高峰に攀じ、日本アルプスの名を世界に広めたのは、イギリス人牧師ウェストンであった。彼の偉業を忍んで毎年6月上旬、清らかな上高地でウェストン祭が開かれる。
この頃、春の柔らかい陽をうけた花々は樹木が繁茂する短いひととき、そこここに群落を作り可憐な花を咲かせる。観光客の行き来する小梨平には、白いコナシ
の花がほころびかけ、和製ワスレナグサといわれるエゾムラサキも森一面を青く染めている。ヨーロッパ原産のワスレナグサには、ドナウ川の激流に流された女
性が「私を忘れないで下さい」と差し上げた花が、ワスレナグサというあまりにも悲しい物語が伝えられている。ハルニレ、サワグルミなどの明るい林下には、
ニリンソウの群落が行けども行けども続き、満開のシャクナゲが山全体を紅白に飾って青春を謳歌しているようであった。
この美しい上高地に魅せられた女性がいる。彼女と出会ったのは夏の飯豊連峰であった。小さい身ながら、単独行で飯豊連峰を縦走してきた彼女は、なんと隣村
の出身であった。今は、憧れの上高地でアルバイトをしているという。その年の夏が過ぎて、上高地から便りがあった。「黄金に染まる秋が終わると、雪の舞う
晩秋の上高地・・・」、「山を毎日見ていても飽きない」と素直な気持が手紙に表れていた。生まれ育った故郷の山河より、彼女にとっては北アルプスの山々が
身近になってしまったのだろうか。その後、彼女は清涼な明神池(写真)に寄り添うオシドリのように、良き伴侶を得てアルプスの見える安曇野で暮らしてい
る。 (神秘の明神池にて)
ホタルブクロ キキヨウ科ホタルブクロ属
上高地の自然はケショウヤナギの樹林帯に縁取られた、梓川の豊かな流れが特徴的である。梓川の河畔に、黄色い花びらを螺旋状に巻いたトモエソウと、群れそ
うように赤紫のホタルブクが咲いていた。蛍の発生の季節はとうに過ぎているが、いずれも晩夏の勢いを失わず野を飾っている。
子供たちにチョウチンバナと呼ばれる、丸みを帯びたホタルブクロの花は何故か優しい。「あっちの水はにがいぞー、こっちの水はあまいぞー」と呼び会った幼い頃の、ほのかな思い出をおこさせる懐かしい花である。

平成7年 9月分
御鏡雪(みかがみゆき)
飯豊山信仰が盛んであった頃、会津盆地より仰がれる”白いたおやかな山”を、里人は畏敬をこめて御山と呼んだ。先達と呼ばれる法印(半僧半俗の山伏の別
称)に率いられた講中といわれる一団が、五穀豊穣.家内安全.身体堅固を祈って御山に参詣する飯豊詣りが盛んに行われた。登拝路と呼ばれる街道沿いには講
中宿が開かれ、宿泊の便を供した。 現在でも福島県の飯豊山麓には、一ノ木部落、弥平四郎部落などに、講中宿の面影を残す茅葺きの家並みが残っている。水
垢離をとって身を清めた講中達は、登る者は「御山繁盛」、下山者は「御山晴天」といいならすのが常だったという。このような、白装束の飯豊講中の姿が見ら
れたのは、昭和30年代が最後であったという。
丸い形をした古鏡が御神体とされるように、緑なす飯豊の山体に残る白い鏡のような雪田を、御鏡雪(みかがみゆき)と呼んで信仰の対象としてきた。この御鏡雪は御西岳南面の前川源頭の御鏡沢に、秋口まで残る雪田をさしている。
今夏は裏参道の弥平四郎口から登り、三国岳〜飯豊本山を経て御西小屋に泊まった。その夜は小屋閉いということで、管理人主催による大宴会となった。髭面で
「熊」とアダナされた管理人は風貌に似合わず芸達者であった。この熊公、いや小椋さんが、オリジナルの「御西の歌」というものを披露してくれたので紹介す
る。
節はデカンシヨ節で歌う。”鏡雪よな肌の人/姥のたるみか草履塚/ハイマツ枕で一人ずれ/心ゆくまで寝てみたい/サノヨイヨイ”。熊にしては艶ぽい歌詞だが、お座敷小唄のメロデーで歌ったらどうだろうか。 (飯豊山神社から大日岳と御鏡雪)
ミヤマアキノキリンソウ キク科
高山植物の開花日などは普通は予想することが困難なので、地形図に花のマークがあってもその年によってはまったく咲いていない場合もあり、はるばる遠くから訪れる登山者にとっては期待が裏切られること甚だしい。
写真のミヤマアキノキリンソウは、野の花アキノキリンソウの高山形で、花期は7月〜9月と長いので、普段は咲いているなという程度で印象は薄い。しかし、
悪天候の時などけなげにも風雨に揺れているのを見ると、何故かこちらも力が湧いてくる。生育する場所によっては背丈が異なり、丈の低いタイプをコガネギク
と呼ぶこともある。

平成7年 10月分
池塘の秋
高山帯または亜高山帯にできた小さな池を池塘(ちとう)と呼ぶ。広辞苑のCD-ROM版で池塘を引いてみると関連して、「池塘春草の夢」という漢詩の一節
がでていた。”少年時代の夢多い楽しみ、また青春のはかない夢という。”誰にでもこの年代には、他愛いもない楽しみや、青い鳥を探すような夢物語を持って
いるものだが、今の子供たちは生まれた時から何んでも与えられ、物質的には夢多い楽しみが生活の中に満々ている。身近な自然がどんどん失われ、代わりに社
会一般の関心は若者を受験戦争へと駆り立てて、自然から享受できる情操を遠ざけている。
数年前にNHKで
「大黄河」という番組が放映された。黄河流域の自然と生活を雄大なスケールで紹介した中に、源流域にあたる大湿地帯、松藩(スンバン)高原に星宿海(せい
しゅくかい)という地名の、あたかも無数の星が輝くような池塘の大海原が広がっていた。鳥や獣さえも恐れて近づかないという、星宿海の荒涼とした風景と
違って、日本の池塘は長閑で明るく、地方によってはシシノマナコなどと呼ばれている。
狭い日本でも捜せば人
の踏み入れたこともない池塘もあるはずだ。気にいった所が見つかったら、恋人の名前など付けて○○ちゃんの瞳などと悦に入ってもよいが、うっかり名前など
付けると訪ねるのに苦労する。雪窪に起因して形成された小さな池塘は、いかにも飯豊らしく、山上の恋人といったところか。 (飯豊連峰、杁差岳の長者平
池塘群)
ムキタケ キシメジ科
秋の始まりと共にキノコ狩りの季節が訪れる。ブナの森に分け入ると、立枯れや倒木した大木にビッシリとキノコが生えていて歓喜することがある。これがほと
んど、毒キノコのツキヨタケといわれても諦め切れないのか、毎年ツキヨタケによる中毒が発生している。ムキタケはツキヨタケと混生している場合も多く、傘
の色や形もそっくりなので要注意のキノコである。
写真のムキタケはツキヨタケと思って敬遠されたのか、登山路の直ぐ近くに生えていたもを、小生が有り難く頂戴することになった。ムキタケとツキヨタケの区別が付くようになると、キノコ狩りの楽しみも倍加する。

平成7年 11月分
初冬の石転び大雪渓
山々を粧った紅葉前線も11月の声を聞くと大急ぎで里に駆け下る。赤い柿がたわわに実った庭先に、ダイコンなどの越冬野菜を吊るした、晩秋の美しい風景
がまだ日本には残っている。季節は秋から冬へ確実に向い始め、時には小春日和の暖かい日に恵まれることがあっても、雨あしの早い時雨(しぐれ)が時々通り
過ぎて行くと、近くの山にも初雪が見られる。この頃、東北の山岳地帯では雪線が標高500M近くまで下がって、稜線はすでに積雪が1mを越える厳しい冬に
変貌している。
飯豊連峰に長大な雪渓を残すことで知られる石転び沢は、白馬岳の白馬大雪渓、槍ヶ岳の槍沢の雪渓と並んで日本大雪渓に評されている。石転び大雪渓は冬季に
日本海から吹き込む偏西風により、山形県側にせり出した雪が雪崩となって谷を埋め、圧縮された雪渓は万年雪と呼ばれる氷塊となって残る。
しかし、この雪渓は完全に消える年もあれば、消えない内に新雪が積もる年もある。そのため越年雪という言い方もするが、もう一つの呼び方として、弟見(お
とみ)雪と言うことがある。弟見雪とは、乳離れしない子のいるうちに次の子をはらむことに例えて、消え残った残雪の上に新雪が降ることを言う。弟見悪阻
(つわり)のことを、「おとみわずらい、おとみよわり、おとみまけ」と言って、家族の健康を気づかう言葉が昔から伝えられてきた。核家族の現代では、こん
な言葉もあまり聞かれなくなったかもしれない。 (石転び沢出会いより大雪渓望む)
ナメコ モエギタケ科
10月末に朝日連峰大鳥池に行った。好天に恵まれ小屋は満員。夜はあちこちで車座になり大宴会となった。地元山形のパーティーは勝手知ったるブナ林に分け入り、天然ナメコを採って来て、さっそくナメコ汁に舌づつみを打っている。
当パーティーの収穫はムキタケとヒラタケ少々。ナメコ汁のおすそ分けの特命を受けた調理人兼ドレイ(無差別用語?)のI君は、「やっぱりナメコ汁は美味い
よなぁー」と感激。当たり前だ、俺は2杯目を狙っているんだ。この日、上条恒彦の番組特集でテレビクルーも入山、3日程滞在するという。12月上旬に放映
されるとかで、はたして幻の岩魚タキタロウが発見出来るかどうか、乞ご期待願います。

平成7年 12月分
遠こて白らい山
「新潟から見える限りの山を登りつくしたい」、越後の藪山を生涯のフィルードとした故藤島玄翁は、小学生の時すでに誓いを立てていた。昔ばなしを聞くよう
に「あっちの山は何だろう」と親父さんに聞くと、新潟市の下町言葉で「いっち遠(とお)こて白(しい)らい山が、飯豊山だろ」「いっぱいこと雪があって、
熊らの大蛇がすんでいて、だっれも登らんねがんだろう」と教えてくれた。翁は明治三十八年生れ。本名を玄太郎といったが、誰からも玄さん玄さんと呼ばれ、
多くの後輩を育てたリーダーでもあった。
近代登山の黎明期に、日本アルプスの岩峰に情熱を燃やしたアルピニ
ストとは別に、越後人らしく愚直なまでに初心を貫き、自嘲をこめて藪山を讃歌した人生は、越後に玄さんありと言わしめた。マルチ人間の西丸震哉氏は、藪山
を寒帯低木ジャングルと呼んでいるように、藪山は背丈3mぐらいの低木が絡み合い、風通しも展望も得られない平凡な山をいう。
玄さんの著書「越後の山旅」は、消え行く山村文化を人文、地誌、民俗、歴史など脈々と続く営みを近代の目で書き留めた名著で、簡潔な文章の中にも一語一語
噛みしめるような洞察力と、含蓄をもった言葉は多くの人に影響を与えている。「一面識もない人達の暖かい情けにふれてきた」と記されているが、一面識もな
い若い岳人にも、越後山岳書のバイブルとし読み伝えられて行くと思う。 (櫛形山から飯豊連峰を望む)
エノキタケ キシメジ科
今年の秋のキノコ狩りは近年にない不作だったようだ。天候によるものか、降雨によるものかは判らないが、キノコの発生は気まぐれで不可思議なところが面白い。山が駄目ならスーパーがあるさと、キノコ狩りにもスーパーのエノキを持って行く時代。
そのスーパーに○○シメジで売られているのが、実はブナシメジやヒラタケであることを主婦でもご存じないようだ。しかし、最近は消費者も賢くなってきたのを察知してか、正しくブナシメジ、ヒラタケと表示されている場合が多い。
写真は人家の柿の木に発生した天然のエノキタケで、晩秋から春まで発生する。えぇーこれがエノキタケとという声が聞こえてきそう。わざわざ天然の、と断らなければならないほど親の顔が見えなくなっているのは、人間の場合と似ている。

平成8年 1月分
越のみづうみ(福島潟)
福島潟は新潟平野の北部に位置した県内最大の潟湖(せきこ)で、まわりは蒲原平野といわれる穀倉地帯に囲まれた沃野が広がっている。平野の成り立ちを見る
と、河川の浸食による沖積平野があるが、新潟平野は他の平野と違った特徴があるという。ひとつは関東平野における武蔵野台地のような台地が極めて少ないこ
と。もうひとつは自然現象として平野が年0.25〜0.4mm
沈降しているという。かつては信濃川や阿賀野川の氾濫によって土砂が供給され収支が釣り合っていた平野も、治水の為に洪水が少なくなり土砂の堆積がなく
なった為である。
福島潟は日本海と並行する10数列の砂丘列に阻まれ、出口を失った小河川の遊水池として最低湿地に出現した。古代には無数の沼沢(しょうたく)や内海の湾
などが複雑に入り込んでいたと想像される、越後の原風景を今に残している。古書に「越のみづうみ」と呼ばれて、往時は南北12KM東西4KMの大きさを誇
る、茫々千里の潟湖であったといわれている。時代が変わって昨年あたりから新食量法施行、ミニマムアクセスと、農業を取り巻く環境もグローバルな時代に突
入した。藩政時代の福島潟は、干拓による人間と水との戦いであり、祖先が血と汗で購った土地であったが、戦後は食料増産と農業土木の発展により、先人が成
しえなかった干拓事業を国営で行われた。その事業が完工すると皮肉にも、生産調整による減反政策の時代を迎え、秋田県の八郎潟干拓事業と同じく、政治的な
闘争が福島潟を舞台に激しく闘われた。現在は21世紀に残したい日本の自然として、回復の努力が進められている。 (朝日に輝く福島潟)
越の白鳥
白鳥の渡来地として宮城県伊豆沼、新潟県瓢湖が有名であが、福島潟の白鳥は観光化された他の渡来地と違って、白鳥を真近かに観察することは出来ない。潟全
体が沼地化して、ヨシやマコモで覆われているため、舟で行く以外に人が踏み込むことは不可能となっている。飛来する約数千羽のオオハクチョウは、シベリア
の大湿地に生息している状態と同じ環境で越冬する。しかし、夜は越冬地で休息する白鳥達も、昼は採餌で忙しく、餌の豊富な水田で採餌する姿が見られる。そ
の優雅な白鳥の舞いは、蒲原平野の見慣れた冬の風物誌となっている。

平成8年 2月分
冬の山岳展望
最近の超氷河時代という世相を反映してか、今年の冬はどうやら暖冬とはおさらばしたようだ。10年ぶりに到来した大寒波に翻弄されて、日本海側各地は久し
ぶりの冬らしい冬にうろたえている。先月までは幸いにも天候が安定していたので、山形県小国町の泡ノ湯温泉の近くにある樽口峠に登った。もちろん今は数m
の雪に覆われているが、春には家族連れで賑わうワラビ山として管理されているので、山岳写真家にとっては知る人ぞ知る飯豊連峰の山岳展望のメッカになって
いる。
高気圧に覆われたある日、満天の星を戴いて自宅を出発する。車で1時間半のアルバイトももどかしく、
夜明けを待たず峠口を発つ。放射冷却で寒気は強いが雪の締まりも良く、ワカン(かんじき)の歩行も快調である。登ること小一時間、眼前に巨鯨のような飯豊
連峰が寝静まっていた。春の海のようにぬったりとした山容に朝日が当たり始めると、山襞の影が生き物のようにゆっくりと変化してゆく。尾根筋に黒々と見え
る樹木は、胸高直径が2m前後の堂々たるブナやナラ、それにキタゴヨウと呼ばれる姫子松の巨木であろう。
突
然、静かな気配を破って里山の方から、野兎(やと)を追う勢子(せこ)の賑やかな声がこだましてきた。声はすれども姿は見えない。「オー」とか「ギャー」
とか、ユーモラスな掛け声で追い立てている。眼下には長く厳しい冬を生きる、マタギの里の冬風景が広がっていた。 (樽口峠から鉾
立峰と杁差岳展望)
樹肌(ナツツバキ)
冬にナツツバキを取り上げるのも変だが、昨年の冬、樹肌ウオッチングで妖艶な樹を発見したので紹介しておきます。「祇園小舎の鐘の声、所業無情の響きあり、沙羅双樹の花の色」云々という平家物語の一節の、沙羅双樹がこのナツツバキに当てられている。
このナツツバキはシャラノキともいい、新潟.宮城県以西の山地に生える高木で、沙羅双樹(菩提樹)に葉が似ているから付けらたものという。写真でご覧のよ
うに3色の皮がまだら模様になっている。昨年に剥けた皮は銀色に、今年の真皮は金色に包まれて、うす衣を着た樹肌美人といった感じになる。花は梅雨時の
6〜7月に咲き、絹のような純白な花びらは気品があって、野生のものとは思えない美しさがある。

平成8年 3月分
幻の村
手元に「修験の山々」という本がある。この本によると、昭和47年4月16日に「幻の村発見」という見出しで朝日新聞に掲載された、とあった。発見者は本
の著者で柞木田龍善氏という人である。その村は「弥生」といい、福島県耶麻郡西会津町弥生の戸数20件ほどの山深い集落である。著者の柞木田龍善氏は定年
を迎えた年に、長年研究してきた修験の山々を、体力があるうちに踏査しようと決心し、飯豊.朝日の峰々を案内人を頼んで歩くうちに、真新しい5万分ノ1の
地図に記されていない、弥生集落を発見したというのである。
戦前、参謀本部陸地測量部が製作していた地図の
所管は、いま国土地理院に引き継がれているが、以前はけっこう誤記もあったらしい。今のように航空機からジュウタン爆撃のように写真を撮るようになってか
らは、間違いもなくなった代わりに、幻とつくようなロマンある見落としもなくなった。私が弥生を訪ねたのは一昨年の晩秋のころで、飯豊連峰の前衛の山、鏡
山に登った時のことであった。この時はもう初冬のたたずまいで、弥生の集落でも雪のちらつく状態であったが、道中にシダが青々と繁ったメルヘンのように綺
麗な沢があるのを見つけた。翌春、雪解けを待ちかねて幻の弥生集落の久良谷沢に出掛けたものの、残念なことにまだ分厚い雪で車道が塞がれていた。濁った雪
代水は勢いを増して流れ下り、寒々としたサワグルミの木立を縫うように蛇行していたが、春を思わせる確かな弥生.3月のにび色の風景がそこにあった。
フキノトウ キク科
蕗の薹(トウ)をバッケと呼ぶのは何処の県だったろうか。バッケ、バッケ、フキノトウと言い合っている子供たちの声を、ラジオで聞いた事がある。雪が融け
ると何になるか、雪が融けると春になる式の情緒ある風景が目に浮かんできた。女性がトウ立つと何になるか?、背筋にゾーとくる御仁は余程の恐妻家ではある
まいか。フキノトウの場合はトウが立っても立派に食べられる。おふくろの実家、山形では五月の連休の頃、トウの立ったフキノトウが畔端に林のように生えて
いた。頭の花の部分だけを取って、茎だけ塩漬けにできると教えられて、姉と肥やし袋に詰め込んで持ち帰ったことがあった。なつかしきもほろ苦い惜春の思い
出である。

平成14年 4月分
天然記念物 「大峰山・橡平の桜樹林」
桜は日本を代表するバラ科の樹木で全国に自生している。毎年、春になるとあたかも山野に潜んでいた花咲じいさん達が一斉に枯れ木に花を咲かせるように、山
々は桜霞にくれる。最近はソメイヨシノに代表される桜の名所が話題になっているが、古歌に詠われた桜は山桜であり八重桜であった。しかし、自然の摂理と桜
を愛でる人々の文化史は今も生活の中で生きており、日本人のこころとなっている。
奈良県、吉野山は日本一の山桜で知られ、ひと目千本といわれいるが、この山桜は信者の寄進で植えられたもので天然のものではない。
ここ大峰山の桜樹林は、山の麓にはオクチョウジザクラが多く、中腹にはヤマザクラ、カスミザクラ、そして紅色のエゾヤマザクラと高度によって分布が異なる
という。数千年の間に自然交配を繰り返し、数十種の変種に分類され、このことから昭和9年に天然記念物「大峰山。橡平の桜樹林」に指定されている。
カタクリ、オオバキスミレなどの野草が咲き始めた登山道を登り、休憩場所の一本松展望台に立つと、山桜を通り抜けた5月の薫風が幾千年の時空を越え語りかけてくるようだ。

平成14年 8月分
杁差岳のニッコウキスゲ
杁差岳は飯豊連峰主稜の北方に位置し、標高が1,600m級にもかかわらずお花畑や池塘が点在する魅力のある山である。植物群落は6月のハクサンイチゲか
ら始まり、7月下旬にはニッコウキスゲが黄色い絨毯を敷きつめ、お盆から初秋にかけてタカネマツムシソウが山を彩ります。ニッコウキスゲは飯豊連峰では至
るところに見ることができますが、本邦山岳では群生する規模が大きく、貴重な自生地となっている。
ニッコウ
キスゲは、東北では尾瀬ヶ原や会津の雄国沼が有名ですが、やはり日光が発祥の地ではないかと書物をひもとくと、以外にも正式な名前はゼンテイカ
(禅庭花)となっていました。茶花と聞いたことがありますが、禅花とはこれいかに・・。「ハクサン」と付いた名前の高山植物は多いのですが、ニッコウ(日
光)と付いた高山植物はほとんどありません。ハイカー達が気軽に呼んだニッコウのキスゲ(日光黄菅)という説もあり、禅庭花とは日光中禅寺湖の禅庭と見立
てたものではないか、との説もあった。
同じ仲間で野に咲く花にヤブカンゾウがあります。この花は一名「わすれ草」と呼ぱれ、この花を見ていると憂いを忘れるといいます。季節になると、私はこの花を摘んで三杯酢にして世々の憂いをはらしています。

平成14年 10月分
直江兼継と朝日軍道
朝日連峰のほぼ中央、西朝日岳から北方の以東岳を望む。たおやかな山並みに白秋の風が吹き渡る。はるか時を越え戦国時代にさかのぼると、かつてこの稜線上
に朝日軍道が切り拓かれていた史実がある。上杉景勝は豊臣秀吉の命により越後から会津へ移封となり120万石を領した。景勝の家老である直江兼継も米沢
30万石という大名並みの知遇を秀吉から受けた。秀吉亡き後、石田三成と徳川家康との確執が深まる中、かねてより三成と密約があった景勝の知将兼継の進言
により上杉氏は大阪方に組し、三成と呼応することになった。
風雲急を告げる情勢はにわかに東北にもおよび、
関ケ原の前夜の暗雲が立ちこめ、上杉方は領国の備えを固めた。一方、兼継の領する庄内は、出羽口の六十里越街道を最上義光に、越後口である越後街道(十三
峠道)は堀秀治に抑えられ、置賜と庄内とが分断されることになった。窮した兼継は置賜と庄内とを結ぶ軍用道路として朝日連峰主稜に朝日軍道を開鑿したので
ある。すなわち、現在の山形県飯豊町草岡から葉山に上がり、御影森山を経て大朝日岳に達し、朝日主稜を縦走して以東岳より茶畑山に下り、同朝日村から庄内
に至る、全長80キロにわたる気宇壮大な事業であった。
古文書によると慶長3年ひと夏で開鑿したと記録にあ
るが、雪消えから作業にかかり、晩秋も根雪の季節まで続いたことは想像できる。朝日軍道は今も葉山中腹までは軽トラが走行できる程の広さで残っている。し
かし稜線上では、西朝日岳と以東岳付近に微かな踏み跡が残るのみという。わずかな潅木の切り開きを見つけ、あれが朝日軍道かなどと、あれこれ詮索し登山す
るのもしばしの疲れを忘れる。
平成14年 1月分
おめでたもの
新潟市古町の本町市場は庶民の台所として親しまれている。「買っていかねがね、安そーしておぐがね」などと新潟弁が飛び交う。昨今は元旦から商売を始める
風調もあるが、正月の初売りは二日に決まっていた。年末年始の市場は独特の雰囲気があり、新巻サケやおせち料理の材料を買い求める人でごった返す。正月の
お目出度物に松飾や注連縄などがあるが、その一角に決まって福寿草などの鉢物が並べられている。冬も峠を越した頃になると、雪割草も店頭に顔を出し、春の
ぬくもりを感じて人の足を止めさせる。
雪割草も福寿草も同じキンポウゲ科の花であるが、雪割草は高値でとり引きされ人気が高い。しかし、標準和名にれっきとしたユキワリソウ(サクラソウ科)と名前が付いた種があるので、葉の形からスハマソウ、ミスミソウと呼ぶのが正しい。
日本海側には花色の濃いものが多く,山草として珍重されている。福寿草も旧暦の正月に黄金花を咲かせることから目出度い花とされている。
写真は佐渡外海府で撮ったもので、本州では自生地が少なくなった早春の植物が何気ない所に群生している。年の初めに雪割草と福寿草のお目出度い花にかこまれた、お伽の世界の写真をお届けいたします。
2009.4 春号
朝日連峰 大鳥池
大鳥池は朝日連峰の標高約1,000mにある山形県最大の高山湖である。
太古の昔、尾根の崩壊により出現したものといわれ、以東岳から俯瞰すると、熊の皮を広げたような姿は、正に自然が作った造形の妙といえる。
大鳥池の雪解けは五月下旬と遅く、湖面はまだ全面凍結していた。周辺のブナ林は初夏の陽気で芽吹きが始まり、残雪とブナ新緑のコントラストが美しい。
「ブナの峰上り」と呼ばれる新緑が稜線を掛け昇ると、深山の精気が一斉に目覚め始める。
幻のイワナ「タキタロウ」が棲むといわれる大鳥池も、全山新緑に包まれるのはもう直ぐである。
2009.7 夏号
飯豊連峰 雲海に浮かぶ稜線
雲海は山間部が放射冷却によって、地表面が冷えることにより、空気も冷やされ、盆地状地形に溜まった空気中の水分が飽和状態になって霧が発生し、帯留する現象である。
標高1,000m以下に発生するので、山上から見ると下界はスッポリと濃い霧に包まれた幻想的風景となる。濃霧に覆われた下界では、やがて太陽が昇り始
めると、熱で霧は文字どおり、雲散霧消する運命にある。山上も下界も高気圧に恵まれた日は、好天無風の僥倖の兆しである。
撮影場所は梅花皮(かいらぎ)小屋付近で、左側直下から石転ビ沢大雪渓が上ってくる。後方に浮ぶ小島状の尾根は飯豊本山から延びるダイグラ尾根である。
2009.10 秋号
朝日連峰 秀峰祝(いわい)瓶(がめ)山と朝日軍道
山形県小国町から入る朝日連峰は、東北のマッターホルンといわれる秀峰祝(いわい)瓶(がめ)山を横に見て、蛇引尾根をひたすら登る。やがて祝(いわ
い)瓶(がめ)山の秀麗な山容もはるか彼方に退くと、北大玉山(撮影地)で、程なく御影森山からの登山道が合流する平岩山に達する。戦国時代のかつて、会
津に国替えした上杉景勝が会津、庄内、佐渡を領したが、宿敵、山形の最上義光そして越後の堀秀治と領地を接することとなり、飛び地の置賜と庄内との連絡路
は孤立した。状況に窮した直江兼継は慶長四年、朝日連峰主稜を連絡路とする「庄内すぐ路(みち)」といわれる朝日軍道を開いた。すなわち置賜の草岡から葉
山に登り、前述の御影森山から平岩山を通り、大朝日岳から連峰主稜を縦断し北端の以東岳に達し、庄内に出るという気宇壮大な事業であった。
2010年 冬季号
表紙写真と説明:新潟東事業所 橋本 春雄
杉
杉は日本固有の植物で屋久島から東北地方まで分布する。代表産地では屋久杉、吉野杉、京都の北山杉、秋田杉などがある。樹齢4,000年を超える縄文杉は屋久島の気候と花崗岩質の栄養分が少ない厳しい環境に適合したものである。
2008年、北海道洞爺湖サミット会場に佐渡で撮った天然杉の巨大パネルが展示された。比較的気候が温暖に思える佐渡に屋久杉にも匹敵するような天然杉原生林が残っているのである。
標
高500m前後の山を見渡すと、一塊の黒々とした樹林が見える。あきらかに植林されたものと違う天然杉の巨木である。中でも、ウラスギ(日本海側)といわ
れる種は、多雪による影響か、必ずしも育成適地でないような場所に、みずから風雪に耐え、達磨のように凝固まった醜怪な姿を見せている。これも天然杉の生
き方なのです。里には先祖が世の安寧を祈って寺社に植えた巨木も各地に残っている。日本は巨大杉ランドかも知れない。
写真の杉は深山幽谷に分け入って撮った写真ではない。自宅の窓から借景としている隣の杉の木を写したものである。最近は、この杉の威勢も私と同じく衰えてきている。
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