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《 私のヒマラヤ日記 》


 01.旅立ち
 02.衝撃のインド
 03.インドからネパールヘ
 04.糞の町カトマンズ
 05.竹節作太とマナスル
 06.カトマンズに遊ぶ
 07.宮原巍
 08.ヒマラヤを飛ぶ
 09.ホテルエベレストビュー
 10.芳野満彦とネパール正宗

 11.ヒマラヤの1人旅
 12.タンボチェからの眺望
 13.シェルパと共に
 14.高山病
 15.続高山病
 16.帰途のキャラバン
 17.珍入者
 18.シェルパ、ダンス
 19.飛行機が来ない
 20.再びカトマンズ
 21.10年を経て


1.旅立ち


 1974年春4月、私のヒマラヤ日記は"嗚呼上野駅"から始った。

 前夜新潟を発ち、上野駅のベンチで夜行列車の疲れをいやしていると、突然ヤーさん((香具師)風のオッサンが隣に寄って来て、「兄さん、いい仕事があるからやって見ないか」という。

  「冗談じゃない」これからネパールに旅立つというのに。

  だがどう見てもこの格好では、これから海外旅行に出かけるスタイルではない。重いザックを担いでキョロキョロしているうえに、ネパールに行くのに散髪でもあるまいと、床屋にかからなかったのが悪かった。家出青年と間違われても仕方がないと1人苦笑する。

  思い起こせば、この旅の動機はいくつかあった。その頃、義兄がアラブ首長国連邦のアブダビにおり、「君も来ないか」などと便りを盛んに送って来た。それにルバング島で鈴木青年が、小野田元小尉を発見したニュースも1つであった。チャンス到来とばかり、私はヒマラヤ山麓トレッキング(山麓歩き)を決意した。

  家人は反対しなかったが、「どうしてそんな所へ」と戸惑っていた。兄は元気で行って来いと送ってくれたが、何かコソコソと出て来た後ろめたさがあった。そんな気持をヤーさんに見透かされたようで、「ヤバイ」長居は無用と少し早いが上野から羽田に向う。 インド航空のロビーに来たものの、自分のような家出風(?)の人は誰も居ない。少し不安になって来たが、やがて登山姿の人達が集まって来たのでホッとする。

 エアーインディア・ボーイング707に乗る。機内では美しいサリー姿の美人スチューワーデスが、合掌して暖かく迎えてくれる。

  早速機内食のカリー(カレー)が出されて、朝方、上野でウロウロしていた自分は、今やすっかりハマラジャー(王候)気分になっていた。




2.衝撃のインド


 香港とタイのバンコクで給油のため着陸。更に夕闇せまるバンコクを離陸し、ベンガル湾に沈む真赤な太陽を追ってインドに入る。

 インド第2の都市カルカッタのダムダム空港は、台風前夜のような熱風が吹き渡っており、何か不気味な感じがする。

 飛行機のタラップを降り空港ロビーに向って歩いていた私は、登山靴のひもがほどけそうになったのでしゃがんで直していると、突然手荷物ザックに黒い腕が伸びて来た。私は「ハッ」としてザックを掴むと同時に顔を上げると、自動小銃を小脇に持った険しい顔付の州兵がサンダルばきで立っている。彼は荷物をロビーまで運んでくれるらしかったが、す っかりド肝を抜かれ私は小走りでロビーに向かって走った。

 空港からカルカッタ市街まで約1時問との由、ボンネーット型のオンボロバスが待っていた。バスもバスだが道路も舖装に穴があいてデコボコ道、それにバスのクッションがまるできかないので、時々尻を浮かせないと突然ドッスンとくる。

  夜も更けたのに、沿道には半裸の人並がゾロゾロと往来している。祭りでもなさそうだし多分暑さで眠れないのだろう。そんな奇妙な集団が途切れるとカルカルカッタ市内に入った。その時、衝撃的な光景が目に入って来た。路地のゴミの山が時々動くのである。 ライトに照し出された所を良く見ると、茶褐色の人問がゴロゴロと横たわっている。

 それも1人や2人ではない、背筋が「ゾー」とする光景であった。これが不可触賎民(アンタッチャブル)階層の乞食の群であった。




3.インドからネパールヘ                     


 異国での最初の朝が明けた。カルカッタの街は朝から雑踏で賑わっている。私は昨夜の路地で蠢く「ゾー」とする光景をなんとか払拭すべく、雑踏の中に身を委ねようとした。ところが、人のひしめき合っている渦に1歩入ると、タイガー、ジェットシンのような鋭くそして好奇にみちた目がいっせいに上から下から覗き込む。

 何故こんなに好奇心が強いのだろうか、構わずどんどん進んで行くと裏通りはゴミと牛糞で埋っている。そして配給か何かに群がりたかる人々、「Oneルピー、Oneルピー」と手を出して金をねだる子供、もうとても耐えられず逃げ出すより仕方がなかった。 この異質なインド社会に私は強いカルチャーショックを受けた。

 そして又、昨夜と同じオンボロバスに乗って、最下層民(力一スト)の犬、猫同様の生き様を目撃した。

 路上で生れ一生を希望もなく、不潔と貧因そして無気力に生き、やがて路上で死を迎えるこれら賎民を見ていると嘔吐感さえも起きてくる。

 しかし、現実に目の前で繰ひろげられている光景に目をそむける事は出来ず、全てが空しく唯々はかなくなるのを感じた。

 インドのカルカッタを発って、もうすぐあの憧れのヒマラヤの国ネパールに着くというのに、私の気持ちは重く一向に晴れない。どうせネパールだってインドと大同小異だろう。何んでこんな所に来たのだろうか、もう何処へでも連れて行ってくれという気持ちになっていた。

 そんな時に「ヒマラヤだ、ヒマラヤが見えて来た」と誰かが叫んだ。飛行機が傾くぞなどと冗談を言いながら、皆いっせいに山の見える方に駆け寄った。

 その「神々の座」ヒマラヤは、水平目線の逢か上方に紫雲をたなびかせながら、この世のものとも思えない姿で屹立していた。私は心良い衝撃と同時に嗚呼やっぱり来て良かったという思いで一杯だった。




4.糞の町カトマンズ


 ヒマラヤの麓という意味の"ネパール"の大地が今、自分の眼下に広がっている。そしてロイヤルネパール航空イェティー号が着陸すると、待ってましたとばかり、小柄で人懐こそうな人達が手を振って迎えてくれた。

 私達もすっかり安心し、宿舎のホテルに着くなり近くのバザール(市場)に三々五々と市中見物に出かける。

 ネパールの首都であるカトマンズの古い屋並みは、300年以前のレンガ作りの建物で中世 を思わせ、窓には独特の精繊な木彫をこらしている。

 バザール(市場)は問口数問の店がびっしり軒を連ね、所狭しと品物を並べている。

 そのバザール全体は、カレーの臭いと線香の臭い、そして牛糞の臭いが入り混じって複雑な臭いがしみ付いていた。

 牛がのんびりと町を闊歩し所構わず糞を垂れ流している。その一方では糞を拾って壁に貼りつけ乾かす人、時々器用に手鼻をかんだりツバを飛ばして行く人、下を良く見て歩かないとひどい目に合う。

 食べ物屋には総じてハエがワンワンたかっていて食欲より吐気をもよおすのが先で、トレキング仲問もバザールはもうこりごりと言って帰って来る。

 私もインド程ではないにしても、これまた大変な国に来たものだと思い。汚ないバザールを離れ一刻も早くヒマラヤヘ旅立ちたい思いだった。

 しかしその夜私は高熱を出し、糞の町カトマンズに1人取残されるハメになった。




5.竹節作太とマナスル


 ヒマラヤの山々を自分の目で見たい、その思いで遥々ネパールまで来たのに病気に罹り、1人カトマンズに居残る事になった。

 自分の不甲斐なさ嘆いていると、カトマンズ在住の大河原工一ジェントより電話があり、竹節作太さんの室に移って呉れという。(以後5日問カトマンズのホテルで一緒に過ごす事になる)当時、竹節さんは68歳の老境であったが、日本最初のヒマラヤ遠征隊、ナンダコッソトの登頂者として名高い人である。

 少し伝記調になるが竹節さんの経歴を記す。 昭和3年、日本人として初めて、サンモリッツの第2回冬期オリンピックに、スキー代表として参加した。また、昭和11年には、毎日新聞の特派員として、立教大ナンダコット登山隊に参加、全員登頂する。

 その後、戦争の為に長い間ヒマラヤ登山は中断されて戦後を迎えるが、当時、極地法による登山は、多数の費用と装備、チームワークを必要とし、文化国家のバロメーターとされていた。 敗戦で意気消沈していた日本も何か世界的な事をやろうということで、日本人でも登れるヒマラヤの中から8,OOOm級の未踏峰のマナスルが選び出された。

 昭和26年、イギリスから独立し意気上がる新生インドで第1回アジア大会が開催され、敗戦国日本も参加が許される。毎日新聞の運動部員として派遣された竹節さんは、15年振りにナンダコットと再会し、感涙にむせびながら再びヒマラヤヘの夢をたぎらせる。

 昭和27年、マナスル踏査行に参加、さらに昭和28年第1次、29年の第2次登山隊員として参加するも、サマ部落での反乱等があり、止むなく撤退を余儀なくされる。しかし、マナスルヘの登頂は国民的な盛り上がりとなり、昭和31年横有恒を隊長とする第3次隊によって漸く登頂に成功するのである。

 戦後のヒマラヤ登山史はこうして幕を開け、今もマナスルはヒマラヤの中の日本の山として、人々の心の中に残っている。私も小学校の2〜3年生の頃、先生に引率されて町の映画館で、「マナスルに立つ」という記録映画を見た記憶がある。




6.カトマンズに遊ぶ                       


 思わぬ発熱でカトマンズに足止めを食った私は、竹節さんから昔話を聞くか、町を散歩する事しかやる事がない。

 始めはあのバザール(市場)特有の臭いに閉口して、散策の度に水筒を持参し、時々ガラガラと嗽をしていていたのに、郷に人れば郷に従えで、今ではバザールの線香やカレーの臭いも何か懐かしい臭いに変って来た。竹節さんなんかもホテルの食事にハエが1、2匹入っていても、チョイと摘んで澄した顔をしているので感心する。

 だんだんと面白くなって来たカトマンズの町は、糞がいっぱい、美人がいっぱい、そしてポルノがいっぱいです。町を歩くと、日本人に良く似た蒙古チベット系の可愛子ちゃんや汚いバザールには不釣合な美しいサリー姿のインドアーリア系の美人、ネクール族、グルカ族等々、ネパールは人種のルツボなのです。(日本に帰って暫くは、日本女性の顔立ちに物足りなさを感じたものでした)



 それからヒンズー教やラマ教(チベッ仏教)が混交しているこの町は、寺の町といわれる程大小の寺が多く、路傍の八百万の神々を祀る祭りも毎日の様にあります。

 クマリと呼ばれる生神様(初潮前の少女)の大祭には、小学生の鼓笛隊から大人の太鼓隊と行列が続き、クマリの一乗った御輿にも近づかれない程の混雑でした。

 又ある時、ドンドン・プカプカと楽団の音がするので、祭りかなと思い行って見ると、派出な服を着た10人組ほどの楽団を先頭にした結婚式の行列でした。 飾りたてたハイヤーには花嫁と花婚がかしこまって乗っており、楽団と共に町を練り歩くのです。

 バザールと寺巡りが日課となったある日、竹節さんは寺に"面白い歓喜仏"があるが見たかと言います。

 外人ヒッピーやゴミの溜場となっている古ぼけた寺々の桟額のあたりを良く見ると、何やら男女合歓像が彫刻されています。所謂、今風に言えばニャンニャン像ですが、この開放的なネパールの文化財を有難くもニヤニヤしながら見て回り、いよいよ、カトマンズの町が好きになって来ました。




7.宮原巍


 ある日、この旅行の企画者でもあり、工ベレスト・ビューホテルのオーナーでもある、宮原さんから連絡があり竹節さんと一諸に会う。

 宮原さんは竹節さんと同郷の信州生れで、旅館の伜である由。何故かネパール国の通産省のような役所に勤め、ネパールの工業化を進めたが、何をやってもスローな国柄のため、観光事業でゆくより他にないと考え、艱難辛苦の末に工ベレストの見える丘にホテルを健てた人だ。

 「君もネパールまで来て、カトマンズに居るのは可愛相だ、2〜3日で仕事が終るので一緒にビューホテルに行こう」という。全然実業家らしからず兄貴のような宮原さんは、ヒマラヤに魅られ、山男のロマンを実現した、宿屋の息子はやっぱり宿屋(ホテル)稼業になった訳だ。




8.ヒマラヤを飛ぶ                 


 待ちに待った日が来て、8人乗りのピタラスポーター機は飛び立った。赤茶けたカトマンズ盆地を眼下にすると、山肌に集落がへばり付き街道がジクザグに上下して続いている。僅かな猫の額程の耕地は石を積み上げて仕切り、段々畑として耕して天に至っているが、緑も少なくその生活の容易ならざるを感じる。

 紺碧の空をバックに白い山脈のヒマラヤがグーンと近づいて来ると、気温も下がり空気がビーンと張り付いて来た。やがてビューホテルが見えてきた。着陸かと思いきや更に2〜3の集落を飛び越えて、工ベレストの大氷壁をかすめるように遊覧飛行のサービス、パイロットはスイス人で氷河にも強行清陸する腕前の持主という。

 そして一方が谷の方に開けた草原のシャボチェー飛行場見かけて急降下すると、時計やカメラがずっしりと重くなり、体も金縛りにあった様に自由がきかない。

 一瞬大丈夫かと不安になる。隣りの宮原さんは、天候が悪いともう駄目だと思う事があるよと言う。モウモウと土煙を上げ飛行機が着陸すると、日に焼けて真黒な人達が駆け寄って未た。

 初めて見るシェルパ(チベット高地民族)だ。厚い袖無しの様な袷着のチベット服を着たシェルパニ(娘)にカメラを向けると、恥ずかしがってキャーキャー逃げる。ヒマラヤの空気のように澄んで無邪気な彼女らとの出会いであった。




9.ホテルエベレストビュー                          


 カトマンズより軽飛行機で約1時間、草原のシャンボチュー飛行場は透き通るような空気に強烈な日差しが輝き、真近に聳える白い山々が、ヒマラヤの一角に踏み入ったことを肌で知らせてくれる。

 この飛行場はシェルパの村ナムチューバザールと宮原さんがオーナーのホテルエベレストビューとの中問にあり、食料、物資のほとんどを飛行機に頼るビューホテルの玄関口でもある。

 ビューホテルまでは登り1時間程かかると言うので、御老体の竹節さんにはヤク(ヒマラヤ牛)が用意された。いつかの遠征の時、ある老隊長がヤクから落ちた。その時"これが本当の落馬テンジン"と大笑いになったとか。(シェルパ族には何々テンジンと言う姓が多く、ハクバ、テンジンと落馬テンジンを引っかけたもの)

 竹節さんは「俺も落ちないようにな」などと言いながら、西遊記よろしく宮原さんがヤクの口輪を取り、私がその後について歩き出す。

 3,500mを越える高所からいきなり歩き始めたので、無理はないがちょっとの登りでも息が切れる。宮原さんは「高山病が出るぞ」とビスタリ、ビスタリ(ゆっく、ゆっくり)と少しも急がないのでありがた、しかし高度順化ゼロの私に高山病はいつの間にか忍び寄り、貧血した時のように目の前がボウーと白くかすみ、もう景色を見る余裕もない。必死にヤクの尻尾を追ってホテルに着く。

 ところが、このホテルは石造りの城のようになっているので、玄関まで石の階段を上らなければならない。

 足どり軽くホテルに入りたいところだが、数段も上れば心臓はドッキン、ドッキンと早鐘を打ち直ぐギブアップする。何回か中休みして漸くホテルに入る。

 ビューホテルには、日本人従業貝が5人程いた。皆んな真黒に日焼けして、現地人のシェルパと全々区別がつかない。馴れるまで現地人が日本語を話しているようで奇妙だ。紅一点の田中さんと言う女性は、初めシェルパニ(娘)だとばっかり思っていたが、"日本語"を話したのでれっきとした大和撫子とやっと気がついた。




10.芳野満彦とネパール正宗


 新田次郎著「栄光の岩壁」のモデルとされ、マッタ一ホルン北壁の日本人初登撃の輝かしい記録がある、芳野満彦さんがビューホテルにいた。

 奇麗なフェルト編みのチベッタン靴を履いて、ピョコタン、ピョコタンと歩くので「どうしたんですか」と聞くと、凍傷で両足の指を全部切断したという。(17歳で遭難し友人と足の指を失うが、不屈の精神で輝かしい登はん歴を残した)

 「俺には柔かいチベッタン靴が一番いい」と言う。 「ところで君、チャンを飲んだかい」「はい、カトマンズで飲んで来ました」(実はあの薄汚いバザールの茶屋で恐々飲んだだけですから、味わう暇がなかったのですが)

 「ここに飛びっ切りのネバール正宗がある、飲って見ないか」と言う。チャンとはネバールの濁酒で白濁しているのだが、この酒は透明である。

 1口飲んで「ウーンこれはウマイ」、「何ですかこの酒は?」傍の一升壜を指して「これは上等のチャンだよ」と芳野さん。

 良く見ると壜の上の方が半透明で、下の方が澱になっている。味も香気も日本酒そっくりで、日本人が忘れた文化"濁酒(ドブロク)"の味を秘境ヒマラヤの山中で味わおうとは思っても見なかった。

 その晩は芳野さんと同室で寝た。時々話しかけて来るので、高山病で痛む頭を押え愛想よく返事する。 私が話しかけると返事がない。変んだなあーと加減しているとグーグーと鼾が聞える。寝言に返事していたのでは話が合うはずがない。

 こんな豪快な芳野さんも詩やスケッチと言う繊細な特技を持ち合わせており、"山靴の音"などの数々の著書がある。




11.ヒマラヤの1人旅


 ビューホテルのロビーは全部ガラス張りなので、居ながらにしてヒマラヤの大パノラマを見る事が出来る。雪煙りを上げる工ベレストを見ながら取る食事は素晴らしい。

 今日、カトマンズに帰えると言う竹節さんには、本当にお世話になった。西も東もわからない私がカトマンズに1人残された時は、どうなる事かと思った。

 だが偶然にも、ヒマラヤの生辞引の様な竹節作太さんに会う事が出来たのは、何と言う巡り合わせだろうか。

 しかし今、竹節さんは飛行機が来たと言うので、慌しくホテルを発って行かれた。

 又しても1人取り残された気持ちで、さて今日からどうするかと思案していると、女性の田中さんが「シェルパにヒマラヤの案内をさせるから、飛行場から戻るまでもう少し待って下さい」と言う。

 しかし長の居候も気が引けるので、遠くに見えるタンボチェーゴンパ(ラマ教寺院)目指して一足先に出発する事にする。

 ホテルを発つと暫く下り坂が続きクムジュン村の分岐点となる。あの村のゴンパ(ラマ教の寺)には確か雪男の頭があるはずと少し降りかけて見る。だが逢か下の村では下がる気にもなれずまた戻る。

  この頃になると今までズキズキしていた高度障害の頭痛もスッキリ消えて、所々ピンクの桜草の咲く山腹道を、ルンルン気分の散歩となる。

 すれ違った現地の人は、私を余程頼りない1人旅と思ったのか「シェルパはどうした」と言う。後から来ると手振りすると、案心した様子であった。

 先程から私の前になり、後になりして歩いていた12〜3歳位の少年が急に立ち止まると、ザックから水筒を取り出して飲まないかと勧める。

 高地では発汗が甚だしく水の補給が必要だが、自分も水筒は持っているし、彼の垢テカの衣服も気になるので、純心な少年の勧めを謝して断わる。

 今度はニヤついた男がやって来て、懐からチベッマネーや飾り物を取り出して、買わないかと持ちかけて来る。高く売り付けるのが見え見えだし、こんな道端で商売でもあるまいと全然相手にしない。

 氷河より流れてミルク色に白濁した、ドウドウコシー(川)を吊り橋で渡ると、直径20p程もある大樹の石楠花林が現われた。石楠花はネパールの国花で、5月の時期は至る所に咲いている。

 紅や桃色の満開に咲く花の下で休んでいると、まるでヒマラヤの楽園に迷い込んだよう。

 ところがそんな暢気な事も言っていられない、そろそろ昼も近くなったのにシェルパがなかなか来ない。 少し心細くなっている所へ下から4〜5人の人が登って来た。水でも飲んで空元気を出そうとするが、慌てて飲んだためかゴボゴボむせてしまった。

 そこへ折悪くシェルパニ2人が通りかかる。クスクス笑って通り過ぎたので、バツが悪くなり下を向いていると、最後の人が「弁当食べませんか」と言う。ビックリして顔を上げると、シェルパのザンブーがニコニコして立っている。

"ああ一待っていたのだ"

 日本語が話せるシェルパのダワ・ザンブー君とポーターのシェルバニが、私を追って来たのだ。

 早速傍に腰を下ろし弁当をひろげる。ザンブーは「後で食べます」と横で私を気遣うように見ている。

 ビューホテルの田中さん心づくしの弁当は、ちゃんと折箱に入っておかずも品々ある。

 飯は少しポロポロだが、よく噛みしめていると、安堵したのか込み上げて来るものがあった。

 わずか半日の1人旅であったがやはり心細かったのか、このヒマラヤの懐に抱かれて、私はいつか遠い昔の少年の様な心になっていた。




12.タンボチェーからの眺望                    


 この地方最大のラマ、ゴンパ(ラマ教寺院)のあるタンボチェー集落は、物資の補給と名だたる高峰を望む絶好の展望台になっている。

 正面には、世界最高峰の工ベレスト(8,848m)と世界第4位のローツェ(8,511m〕が大寺院の釣屋恨のように連なり、少し右前方には、アマダブラム(6,856m)の奇峰が顔をのぞかせている。

 谷を隔てた眼前には、カンテガ/6,779m)とタムセルク(6,608m)がそそり立ち、彫刻刃で彫ったようなヒマラヤ襞を無数に刻んで、恐ろしい程に青白く光っている。

 そして極彩色に塗られた立派なゴンパ(寺院)と、チョルテン(仏塔)が建ち並んでいる。

 チョルテンの頂からは色とりとりどりの小旗が、大運動会の万国旗のように張り渡されていてカラフルだ。

 私をガイドする事になったシェルパのザンブーは、バティー(茶屋)に入ってミルクティーを持って来てくれる。のどが乾いているので最高に美味しい。

 広場ではヤク(ヒマラヤ牛)使いの中年のチベット人と、3人のシェルパニ(娘)達が車座になって昼食の乾飯を食べていた。

 良く見ればザンブーの連れで、石楠花林の峠でむせている私を見て、クスクス笑って通り過ぎたシルルパニ達ではないか。

 私もカレー粉をまぶした乾飯をご馳走になりながら、傍のザンブーに私のザックを運ぶシェルパニは何歳かと聞くと「18歳」だという。

 そして彼は「私30歳、奥さんと子供3人います」と流暢な日本語で話す。小柄で精悼な彼は、4〜5歳は若く見える好青年であった。




13.シェルパと共に                


 遠征隊の物資を運ぶヤク使いのチベット人と、3人のシェルバニを合わせて我々は6名でタンボチェーを出発した。3頭のヤクを先頭にして、岩石だらけの荒涼とした道を進む。

 時々ヤク使いの男が「トウートウーシャシャ」などと奇声を発しヤクを追い立てるので、聞いているとおかしくなる。

 集落が近くなると道の両側に石が積まれている。 その石塔はマニ石といって、ラマ教のありがたい経文が彫られているのだ。マニ石が中央分離帯のように置かれていると、必ずその左側を通らなければならない。ヤクも心得たもので大底は左側を通る。

 そして夕方バンボチェーという集落に着く。 ザンブーはゲストハウスと看板のある家に入り、直ぐにミルクティーを持って来てくれる。

 薄暗い家の中に入るとゲストハウスとは名ばかりで、鍋、釜のほか何んにもない木賃宿だ。石を並べた囲炉裏には老婆が1人火の番をしていたが、ザンブーは私を老婆のいた場所に座らせ、今度はバターの入ったチベッタン茶をすすめる。

 折角のお茶だが、バターが入っているので胃がムカムカする。

 次にザンブーは、ビューホテルの田中さんが持たせてくれた食料で、私の夕食を作る。メニューはα米に玉子焼、貝の缶詰に海苔、デザートとして桃の缶詰を切ってくれる。

 シェルパ達は私が食べ終るまで、板敷の床にあぐらをかきながら待っている。皆んなの見ている前で自分だけ食べるのも悪いし、あんまり食欲もないので缶詰を半分程残し彼らに食べてもらう。

 シェルパニ達は、恐々手の平で受けて舐たりしているが、口に合わないのか少ししか食べない。かわりにヤク使いの男はうまそうに食べては、盛んに彼女らをからかう。シェルパニ達も負けずにやり返す。 横でザンブーがニヤニヤして笑っている。

 今度はお互いの首飾りや腕輪を見せ合って自慢している。なかなか役者なヤク使いの男だ。

 私は眠くなったので横になる。ひと眠りして目を覚ますと外はすっかり暗くなり、火の恋しい温度になっていた。彼らも食事が終り談笑していたが、最後に熱いチベッタン茶を皆んなで飲んで床につく。

 ゆうべは、頭痛で良く眠れなかったせいか、雪男が車座になって踊っている夢を見た。破れた窓のあたりから乳白色の霧が入り込んできて、なんだか雪男が中をのぞいているようで気味が悪い。シェルパ達はまだ良く眠っているが、明るくなりかけて来たので外に出て見る。

 ところが、家の中で寝ているとばかり思っていたヤク使いの男が夜露の降りる外で寝ているではないか。私に見られたので気まり悪そうにニヤーとして寝袋から出て来た。さては「彼が雪男だったのか」などと空想して見る。

 ザンブーは朝食の用意をしながら焼ソバの袋を出して、「どうして作るんだ」と聞いてくる。

 ビューホテルの田中さんは「シェルパは焼ソバとラーメンの区別がつかないので、焼ソバをラーメン風にしたり、ラーメンを焼ソバ風に作ってしまうから気を付けて」と言っていた。

 何回教えても駄目なのだそうだ。案の定、私の焼ソバも水を多目にした上に玉子まで入れたものだからドロドロした焼ソバになってしまった。

 今度は、私が彼らの食事を観察する番だ。

 昨夜の残り飯にイモと肉切れを混ぜバターでいため、これにトウガラシを振りかけスプーンで食べている。

 女の子でも大食漢だ。3皿程平げた後で、もう少しもう少しと勧められると、また食べ始める。

 高山病で食欲のわかない私には、うらやましい。 「熱い物はスプーンで食べ、ウドンのような物はハシで、冷たいものは手で食べる」とザンブーが教えてくれる。

 食前、食後にシェルパ達は必ずチベッタン茶を飲む習慣がある。先づ湯を沸かした容器の中に、固形状の発酵茶と塩を少々入れて煮出す。次にそのお茶を木製の筒の中に流し込んで、「ギー」というヤクの乳から採ったバターを加え、丁字型の棒で上下に激しく攪拌して出来あがる。バターが入った濃厚なチベッタン茶は、彼らの大切な栄養源になっている。




14.高山病


 次の日シェルパ達との旅も無事に終わり、仲間のトレッキンググループが滞在しているデンボチェーというカルカ(夏場の出作り小屋)の集落に着く。

 カトマンズで別れてから1週問振りで会う。真黒に日焼けした仲間の顔が懐しい。お互いの無事を喜び合うが、高山病にやられて衰弱している人や酸素を吸っている人もいる。

 登山隊の場合は、低地からキャラバンを続けて来るので十分高度順化しているが、我々トレッカーは、日程の都合もあり高度順化が不十分だ。

 症状は先づ頭痛に始まり、食欲不振、下痢、持病の悪化、倦怠感とあらゆる症状が出る。昼間は動いているのでなんとか気が紛れるが、夜が一番つらい。じっとしていても頭がズキズキ痛み、心臓は勝手にドッキンドッキンする。更にハァーハァーと息をついていないと苦しい。

 高山病に苦しめられた人は、やけになり「人間の住む場所じゃない」などといっている。私も高山病についてはまったく無知で、無防備であった。




15.続高山病


 4.000mを越えると酸素不足や気圧の低下で少なかず高度障害があらわれ、四六時中重苦しい頭痛や呼吸困難に見舞われる。

 私がトレッキング・グループに合流した日、テントの中で酸素を吸っていた女性は更に病状が悪化したため、シェルパに背負われて下山する事になった。

 私をガイドして来たシェルパのザンブー君も折り返えし、この女性をサポートして下山すると言う。 彼には世話になった謝礼として10ルピー渡す。

 次の日、氷河で削られたモレイン(氷河が運んで来た土砂が堆石した台地)を登り、工ベレスト(B・C)を目指すが体の調子は最低で、それに天候も悪化して来た。ノーシンやセデスと言った頭痛薬を飲んで、1時的に頭痛を止めて登る豪の者も居るが、後発だったため高度順化が不十分な私は、無理をせず下山することに決める。




16.帰途のキャラバン


 ヒマラヤ入山以来の頭痛からすっかり解放されて、楽しいキャラバンが始まった。キャラバンにはサーダー(シェルパ頭)をリーダーに3〜4人のシェルパが付き、炊事係として若いキッチンボーイ2〜3人が鍋、釜を背負って休憩地やキャンプ地に先行する。 そしてポーターは20才前後の女性(シェルパニ)の役目で、2人分の寝具とザック約20kgの荷物を逆三角形の竹カゴの中に入れ、カゴに付いた一本の紐を頭にかけて担ぐ。

 キャラバンの後半彼女等も疲れて来たのか、「ヤスメ」、「ヤスメ」と腕をひっぱる。ゆっくり休んで一緒に行こうと言うのである。

 所々の集落にはバティーという茶屋があり、お茶の他チャン(濁酒)やロキシー(蒸留酒)といった酒も売っている。我々もシェルパニ達と一緒にバティーに入ってチャンを注文する。彼女等はアルコール類御法度と思いきや、一緒になってチャンを飲む。 味は少し酸ぱいがアルコール分も低くキャラバンの元気づけには最適の飲物である。

 昼食時やキャンプ地では、先行したキッチンボーイが熱いネパールティー(ミルクたっぷりの紅茶)を沸して待っている。我々が到着すると「サーブ(旦那)お茶です」と配って回る。至れり尽せりで、ワイフより気の回るキッチンボーイ達であった。




17.珍入者


 いくつかの峠を越え、川を渡り、麦が青々と繁るシェルパの村を通り過ぎ延々とキャラバンは続く。

 ある集落の民家の前で腰を降して休んでいた私は、好奇心からフト家の中をのぞき込みたい衝動にかられた。1階部分は家畜を飼っている様子で、干し草の臭と牛糞の臭がする。目が慣れてくると牛が2頭横になっており、隅の方に2階に上がる階段がある。 干し草の上をガサガサ渡たり「こんにちは」「いますか」とか、しばらく大声をかけて見るが返事がない。 留守を幸いと2階に上がり、薄暗い奥の室をのぞいて見ると囲炉があり火が赤々と燃えている。よく見るとおじいさんが座っているではないか。

 びっくりした私は慌てて降りようとしたら、おじいさんはこっちへ来いと合図している。怒鳴られそうな気配もないので、神妙な顔をして室に入る。「まず座ってチャンを飲め」と、容器になみなみとチャンを注いでくれる。折角の好意だし度胸を決めてチビリ、チビリ飲み始めると、チャンは一息に飲む物だ。「もっと飲め、もっと飲め」と勧める。チャンはドブロクと同じく澱があるので、アルミ食器に3杯も飲まされると酔う前に満腹になってしまう。

 すっかり調子に乗った私は「これは何だ、あれは何だ」と、家の中を色々見せてもらうが、おじいさんはいやな顔一つせず応対してくれる。

 見ず知らずの侵入者に対して、何と寛容な人なのであろう。私は感謝の気持ちを伝える言葉もわからない。「ちょっと待ってください」と下に降り、ザックから1枚のシャツを持ってきて老人に贈った。




18.シェルパ、ダンス


 とうとうキャラバンの最終地ルクラに着いた。 キャラバンの最終地ルクラ飛行場でシェルパやシェルパニ達とも明日は別れる最後の夜、 みんなでお金を出し合いチャンを1樽仕入れてくる。 ドブロク状の諸味をザルで濾してチャン酒は出未上がった。

 酒宴が始まると陽気なシェルパ達は、3人4人と肩を組み合ってシェルパ・ダンスを始めた。歌を歌いながらタッタッタッと足を踏み鳴らし、一、二、三と前に進んでは一、二、三と後に戻るのだ。肩を組めばだれにでも踊られそうなので、我々も次々飛び入りする。

 キャンプファイヤーはヒマラヤの夜空を赤々と照らし、シェルパ・ダンスの列は5人10人と増え、いつ終るともなく続く。純情なシェルパニ達は涙していたが、私達の目をうるませたのも、焚火の煙だけではなかった。




19.飛行機が来ない


 今日はカトマンズに帰える日だ。

 10時頃飛行機が来るというので、首を長くして待っていたが、いっこうに飛んで来る気配がない。飛行機はカトマンズが雨の場合欠航する。例えカトマンズを飛び立っても、山岳地帯の天候が悪ければ着陸せずに引き返すという。

 同じ頃、高山病のため山を降りる連中はルクラ飛行場まで下山せず、工ベレストビューホテルに滞在しシャンボチェー飛行場便で帰える予定であった。ところが3日も4日も飛行機が未ないので、毎日往復2時問程かかる飛行場通いが日課だったとか。

 さいわい、我々の居るルクラ飛行場は、キャンプ地とは目と鼻の先なので心配ないが、とうとうその日は飛行機が飛んで来なかった。

 次の日は絶好の飛行日和だ。初め米つぶほどの光る物体が確認されると、微かにエンジン音が聞えて、やがて空いっぱいにゴウゴウと爆音が響き渡り、モウモウと土煙を上げ飛行機は着陸した。

 ヒマラヤ遊覧飛行の外人客や物資が次々と運び出され、飛行場は急に賑やかになった。私達も慌ただしく機内に乗り込み、シェルパ達やヒマラヤと最後の別れを告げた。




20.再びカトマンズ


 カトマンズのホテルでは、富山県から参加した長谷川勇さんと同室になる。北陸より北からの参加者は私と長谷川さんの2人だけであった。彼は富山県西砺波郡福光町の出身で、同じ町で生まれた明治期のヒマラヤ画家石崎光陽は同郷であると言う。

 光瑶がヒマラヤに憧れたのは、幼い頃仰ぎ見た立山の姿からではなかったのか。そして長谷川さんも、同郷の生んだ画家の憧れの地ヒマラヤを一目見たかったのであろう。

 先づホテルのバスに入って2週問分の垢を流す。ついでにシャツも洗濯するのでお湯は直ぐ真黒になってしまう。2人で垢を流し合い、水も4回程取り替えてやっとさっぱりした気分になった。

 次の日は、西山さんと言う女性と3人で、カトマンズより8q離れた古都パタンの町に行く。(西山さんは元看護婦とかで、インド北部のカシミールを回ってネパールで現地参加した。)

 最初にハイヤーを止めて、値段の交渉が成立したところで車に乗り込む。奇妙な事に交差点で止まるとどの車も必ずエンジンを切ってしまう。燃料を節約するためだろうか?

 パタンに着くと頼みもしないのに子供か寄って来て「コッチ、コッチ」と合図する。大人のようにうるさくもないし適当に彼らの後について行く。旧王宮広場や黄金寺を見て回わり、最後にお金を請求するので1ルピー渡すが不満そう。「ダメ、ダメ」子供はくせになるからダメとそれ以上とり合わない。私達の方が1枚上手だ。

 帰えりのハイヤー代は往きの代金より少し高いので、同じ値股にしろとしつこく粘って見るが、「まあいいじゃないか」と長谷川さんが払ってしまう。 料金は同じだと思って乗る前に交渉しなかったのだから当方のミスだが、同じ運ちゃんなのに釈然としない。

 私はカトマンズの町に、ヒマラヤ入山前後合わせて1週問いたことになる。竹節さんから値切りの仕方を教わっていたので、バサールでの買物には少々うるさくなっていた。1日か2日の観光客であれば10%か20%も値切れば、鬼の首を取ったように喜んで帰ってしまう。だが実際の値段は言値の1/5〜1/10物によってはそれ以上と聞くからくやしい。

 ところが初めは相場がわからないのだから、手の打ちようがない。あそこの店は安かったとか、俺はいくらに値切ったとかの情報が必要になってくる。 買い気を出すと絶対に値引きに応じないので、「俺は無埋して買わんぞ」という顔をしていないと、商人の思いどおりになる。だが所詮観光客なので最初から足元を見られている。値切りを一つのゲームと思えば祭の夜店をからかうようで結構楽しい。

 カトマンズの市街から1〜2km離れた小高い丘にスワヤン・ブナート寺院がある。遠目にも奇妙な目玉が見えるので、自転車を貸りて出かけて見る。

 この寺は、別名"目玉寺"と言ってラマ教徒の聖地になっており、チベット服を着た善男善女が多い。

 境内の壁にはマニ車と言って、稚児車(赤ちゃんのガラガラ)のような円筒型でクルクル回る仏具がずらっと並んでいる。参詣者は「オムマニペメフム」と噌えながら、このマニ車を手でガラガラ回して歩く。このマニ車には有難いお経が書かれているので、回した分だけお経を読んだことになり、効率よくお詣り出来る仕掛けになっているのだ。

 このように残り少ない日をカトマンズで過ごし、18日問に渡るネパールと別れを告げ、タイのバンコクで1泊の後、桜も散り薫風ここち良い5月初旬日本に帰国した。




21.10年を経て


 多くの人達に世話になり、また見る物、聞く物すべてが強烈で印象に残る旅であった。

 しかし、ふと「俺は本当にヒマラヤに行ったのかなあ一」と思うことがある。10年も過ぎればみな夢のまた夢で、「ヒマラヤは遠きにありて思うもの」となってしまった。これからも10年、20年と思い出はどんどん薄れ、鮮烈な印象だけが残るであろう。

 

 私もいつの問にか2児の父親になった。子供達も大きくなったら、自分の意志で外国を見てほしい。

 私の青年期の体験が、参考になればうれしいと思っている。 今回10年を契機に旅行記をまとめてみたが、私にとっては大変努力を要することであった。

 最後に拙い乱文をお読みいただいた皆様に心から感謝申し上げます。      (完)




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