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十三峠街道踏査紀行 踏査日 1993.11.7
<米沢街道の沿革>
古歌に「戸を越えて朝日わたりをいざ白子 森越御館すぎて小阪に」とあるように、越後と出羽置賜郡を結んでいた古道は、沼村(現関川村)から茅峠を越え金丸村に至り、更に荒川を渡り、八口村の越戸(廃村)から田代峠を越えて小渡(朝日わたり)に出たという。古街道沿いの大宮には大宮子易神社があり、今も新潟.山形の妊産婦の信仰が厚い。大永元年(1521年)に米沢を領していた伊達種宗は、悪路と険しい峠越えであった荒川沿いの古道を廃棄して、羽越国境の大里峠に新しい道を切り開いた。この街道は米沢に上杉氏が移封すると、遺領である越後との間に本格的な街道が整備され、交易は飛躍的に増大した。
藩政時代には村上城下あるいは新発田城下を起点として、越後の関村から出羽の小国を通り、米沢に至る街道を米沢街道と呼んだ。この街道は関村より連続して峠路となり、米沢まで十三の峠を数えた。別名十三峠街道と呼ばれ、越後と内陸の置賜を結んで、江戸時代の初期には、置賜から織物の原料である青苧(あおそ=カラムシ)や綿.蝋.漆などが、越後からは塩や海産物、四十物、小間物、薬などの日用品類が送られた。幕末ころまでに峠道は敷石で整備された。明治に入ると輸出品として絹の交易が盛んになり、越後と出羽を結ぶシルクロードとなった。
明治11年に鬼県令といわれた三島通庸は、再び荒川に沿って三島新道を開鑿した。通庸は荷車の通行できる道をめざしたが、工事の大半は地元民の苦役によるものであったという。同10年には英国の女性探検家、イサベラ.バードは東北奥地を旅行して、日光から会津街道を通り津川に出て、川船で新潟湊に下っている。翌11年、今度は新潟から米沢街道を北上した。女史は「日本奥地紀行」という著書を残しているが、その頃の東北はほとんど外国人を見たことはなく、物見高く好奇心の強い人々で塀が壊れるというあり様であった。みんなハダシ(素足)であるとも記している。
昭和11年に至り、三島道と並行して国鉄米坂線が開通すると、それまで細々として人の往来があった峠路もさびれ、何百年におよんで越後と出羽の内陸を結んだ山越えの街道は衰退した。今では十三峠街道のほとんどの峠に車道が付けられ、旧街道をたどることすら不可能となった。しかし、往時の面影を残す敷石の道。あるいは人知れず草むら埋もれ、自然に還えろうとする道。幾星霜をmcて街道は人と共に栄、人と共に忘れ去られようとしている。
<十三峠踏査行>
晩秋の霜月、数年来の調査で温めておいた、新潟県関川村の榎峠から山形県小国町朴ノ木峠まで、四つの峠を家族と共に踏査した。
0.8KM 榎 峠 0.7km
<榎峠> 榎峠入口 −−−−−−−−−〕 + 〔−−−−−− 沼
越後片貝駅に車を置き、国道113号線を逆行して片貝トンネルに入る。
自動車の凄まじい轟音と排気ガスの洗礼をもろに受け、現代文明の便利な生活がいかに歩くという行為と相反しているかを知る。
トンネルを抜けると榎峠入口の看板がある。国道から急な階段が付けられて、ひと登りすると赤松が混じったコナラの雑木林となる。
騒がしい車の騒音は山と森に遮蔽され聞えてこない。褐色に黄葉した峠道は、コナラの落ち葉が敷き詰められ、スポンジのようにふかふかで歩きやすい。
落ち葉を踏み締める山靴のカサコソとした音がこころ良く、約20分で榎峠となる。
戊辰の役ではこの峠をはさんで、官軍と奥羽列藩同盟軍が対峙した。
同盟軍側は峠に防御陣塁を築き、官軍と激しい攻防戦争を繰りひろげた。今も胸高程の陣塁が残っているという。当時この峠がいかに重要な戦略拠点であったかうかがえる。峠を下ると杉林の中にひっそりと「南無阿弥陀仏」と記された戊辰戦争戦死者供養塔が建っている。蛇喰弘長寺六十三世良成和尚、明治元年辰仲秋とある。
途中に取り入れが終わった山田が2カ所あって、ほどなく宿駅であった沼部落に着く。
車道3KM 1.4Km 大里峠 2.7km
<大里峠> 沼−−−−−−−−−〕 + 〔−−−−−− 玉川
沼部落は近年、若ぶな山にスキー場が開設され、街道の宿駅の面影も無くなった。沼川を渡ると舗装道路がスキー場へと大きくカーブしている。旧道はその手前の墓場の坂道を上がる。前方に猿ガ城岩の奇山が見える。その昔、この一帯は越後城氏の採掘による金山があり、沼川には砂金が採れたという。再び舗装道路に出るとスキー場の入り口になるが、肝心の大里峠への分岐道が分からない。田圃が2〜3枚ある小径に入り込んだり、行き過ぎて通行止であったりする。子供達からは「お父さん何時になったら着けるの」と言われる始末。もう昼に近いが畑鉱山跡まで頑張って昼飯にしたい。
見覚えのある溜池の風景が現れて安心する。坂の上に白い柵が見えるので、何だろうと近づいて見ると、ロッジ風の山小屋が建っていた。人の居る気配はなく、軍鶏に似た大きなニワトリが十羽くらい元気に鳴いている。休憩するには落着かないので通り過ぎる。暗い杉林を越えると畑鉱山跡は近いはず。戦前この畑部落には300人程住んで銅を採掘していた。人気の全くない山中に山神社や倒れた墓が未だに残っている。羽越水害の前には二軒の民家があったという。畑鉱山跡には選鉱場か積出場か分からないが、高さ4〜5mのコンクリートの残骸が往時を物語っている。やっと昼飯にありつけたが、ここまでだいぶロス時間を食った。
日没まで5時間を切って、秋の陽はツルベ落としというのに、まだ一つの峠しか越していない。気を取り直して第二の大里峠にかかる。約10分程で柄目木という峠の茶屋跡に着く。ここの地形は峠に向かって緩やかに開け、背丈程の柴木が茂っている。柄目木とは雑木の薮という意味であろう。ふと赤紫のムラサキシキブの小粒な実を見つけ足を止める。
大里峠の頂上に近づくと、青白い粘土質の地滑りが発生して、谷沢に泥流が大蛇の如く数百メートル押し下っている。大里峠に残る大蛇伝説は、このような地形が生んだのであろうか。
ある月の夜に蔵の市という座頭が大里峠に差しかかり、さえざえとした月に向かって琵琶を弾いていると、琵琶の音色に誘われたのかどこからともなく「おりの」という美しい女が現れ、私は女川に住む大蛇であるが、今宵はあなたの琵琶に聞き惚れてしまった。私は関の村を沼にして住みたいと思っているが、お礼に貴方にだけ教えてやると市に打ち明けた。しかし、この話しを村人に告げれば貴方の命はない。市は大蛇との約束を破って村人に告げた為、さしもの大蛇も村人の総力を上げた包囲網によって退治された。大蛇は大里峠を七回り半巻き、呻き声は七日七夜に及んだという。 以上が大里峠にまつわる大蛇伝説の一節である。
大里峠は新潟と山形の県境である、峠の頂上には山神社が祭られている。お堂の中には四つの石像が並んでいた。大里峠は沼からも玉川からも良く刈払いがなされ、快適な峠歩きとなった。山間に傾いた太陽からぶな林に陽があたり山が燃えるように明るくなった。急いで通り過ぎるはもったいなくて、時間のないのも忘れ立ち止まる。手ノ倉沢の車道まで降りてコーヒータイムとする。
1.5Km 萱野峠 2.0Km
<萱野峠> 玉川−−−−−−−〕 + 〔−−−−−−足野水
宿駅玉川部落は米沢藩が越後と接する最も重要な所であった。往時番所であったという店屋で飲み物を仕入れる。ついでに萱野峠までどれくらいか訪ねると、4〜50分位とのこと。"怪しい家族集団"が玉川部落を突ききり、玉川の清流を吊り橋で渡り第三の峠、萱野峠に入る。
始めは杉林の中で足場が悪いが、敷石の道になると俄然広くなり歩きやすくなる。
よくぞ百年変わらず残っていたものと感激する。折から秋の陽が斜めから差し込み、まだ残る木々の黄葉を明るく照らしている。
萱野峠は標高278mと高くはないが、峠路が足野水部落側になると踏跡が定かでなくなる。ここからは一度歩いたmc験がないと絶対にたどれない。道なき道を笹やススキを押し分けて行く。途中、3m程の小沢を2本渡ると、左側に朽ちかけた大きな楢の老木がある。以前、玉川部落の70才ぐらいのお爺さんから聞いた話であるが、子供の頃、足野水から玉川にある小学校に、萱野峠を越えて通学したものだという。この楢の木の前を子供達が元気に通った時代も街道にはあった。
藪道を通り抜けると、植林の道が斜めに合流するが、今この道は車道の工事が進められていた。この道沿いに下降し足野水部落の外れに出るのが、本街道であると資料に記されているが、時間がないので道を横切り、足野水部落の中ほどに出る脇間道を通る。しかしこの道は民家が近づくと、切り倒した木がそのまま放置されはなはだ歩きにくい。予定の時間をかなりオーバーして足野水部落に着く。部落内にも新しい道路が建設中であった。 竣工平成5年10月と記されているが、まだ通行止めである。
車道0.5Km 2.0km 朴ノ木峠 車道5.0km
<朴ノ木峠> 足野水−−−−−−−−−〕 + 〔−−−−−−小国
第四の峠、朴ノ木峠の入口は足野水部落の長谷川さん宅の庭先をとおる。
峠越えを前にして恥も外聞もなく、路傍に座りこんで最後の腹ごしらいをする。付近の人が物珍しそうにこちらを見ている。日没も押し迫って来ており、我々家族の士気もいやが上にも高揚している。出発はリミットである16時とする。
しかし出発して数十mも行かない内に藪を突入する道がわからなくなる。二三度行きつ戻りつするが、拉致があかないので、しゃにむに藪こぎをして街道を探す。やっと見つかり、ほっとするのも束の間、また、いくつかの分岐路と藪に阻まれる。
(2年前に通った道だが、細かいところまで覚えていない。)
日没はとうに過ぎてわずかな薄暮の明かりが谷間に漂っている。もう二百三高地の突撃である、切り通しの明るくなっている所が朴ノ木峠だと、檄を飛ばす。
4人は必死に突き進む先に鉄条網ならぬモミジイチゴの棘が待っていた。後で見ると、半ズボンで来た娘の膝頭はこの藪こぎでズタズタに傷ついていた。
暮れなずんだ朴ノ木峠に立った。思えば家族は何もわからず良く付いて来てくれた。暗くて顔は良く見えないが、ホットした安堵感が伝わる。振り返ればもう殆ど暮れた薄墨色の空に飯豊連峰が浮かんで、北方眼下には小国の町の光が皎々と輝いている。
朴ノ木峠は小国から車道が峠を越え足野水部落に下っている。旧街道は車道と十文字に交差するようにして、小国健康の森林へと降りて行く。
昼でも暗い杉の老木があり、何か出てくるかもしれないなどと怖い話しをすると、何かを掴むと安心するのか、瞽女さの角付けよろしく、みんな私のザックの紐にぶら下がって来くる。この車道を下れば小国まで小一時間と読んでいたが、突然道が行き止まりになった。真っ暗な森の先に散策道の看板があるが、こんな道に迷い込んだら一晩中出てこられない。家族の不安な視線を背に、熊のようにウロウロ道を捜し回る。頭の中は記憶の糸を手繰ってバタバタ騒いでいる。
ようやく記憶の糸もほぐれ、車道をショートする小道を発見した。魑魅魍魎がでてもおかしくない林の中を、4人おし黙って足早に過ぎて本道に出た。暗闇の中に空き家が見えてくる。そこから左手の小径を辿るのが街道であるが、もう薄きみ悪い道を歩く勇気はない。そのまま車道を下り八木沢橋を渡ると、左に神明山公園の上杉神社に行く散策道が近道である。
約25Km踏破して、十三峠街道最大の宿駅、小国に着いた。誰も待っている人もないが、暖かい町の灯と横川の川風が火照った体に心地良い。ほとんど人通りの途絶えた町を駅に向かう。小国駅到着18;20分。
米坂線片貝行きの汽車時間が迫っている。急いで駅前のラーメン屋に駆け込み、今日のささやかなフィナーレとする。イッパイきげんの地元の人が、何処から来たのかとしつこく聞いて来る。米沢街道を歩いてきたというと、そんな所あるのかいなとキョトーンとした顔をしている。よく考えると無理もない、真っ暗な夜道をキツネやタヌキの家族でもあるまいし、今、通って来たといっても誰も信じてはくれまい。
峠行の後、私達夫婦は三日三晩?、いつも藪をこいでいる夢を見続けた。
いつもの山旅の疲れとは少し違う、泥臭いカルチャーな疲れだった。
子供達は、はたしてどんなの夢を見たのだろうか。
目まぐるしく変わる現代社会の中で、子供達は勉強々で山野を駆けめぐる姿は見られなくなった。世間には変な家族と思われるかも知れないが、幾山越えた峠行の思い
出は、子供達の記憶に長く残るに違いない。
完
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