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《 街道と峠 》




会津街道



 

会津街道と米沢街道の風景

司馬遼太郎の著書に「街道を行く」というシリーズがある。

 このシリーズは日本の街道だけでなく、世界史の舞台となった街道を取り上げてゆくという手法で、人類の起源から民族の興亡に及ぶ、壮大なロマンを街道を通して見つめなおしてゆく、司馬氏特有の歴史観に貫かれた作品である。
 
 もうかなり以前からだが、新発田から県境を越える街道に興味をもった。

 一つは新発田を起点として会津若松に至る会津街道で、もう一つは越後の日本海側と内陸の出羽(置賜地方)を結んでいた米沢街道であった。
 
 磐越高速道路が開通する時代に街道でもあるまいと思われるが、司馬氏の考えるように人間には忘れてはならない何かが、道にはあるように思える。そんな、何かを探し求めて、折々に旧街道を訪ね歩いてた記録である。撮影には数年かけており、都市化の波に押され、失われた風景も少なからずある。

 



 

会津街道の風景寸描

会津街道とは新潟県新発田市と福島県会津若松市を結ぶ街道であった。
                          
 五十公野の街並みを過ぎるとそこは会津藩領であり、山内集落には会津藩の番所が置かれていた。新発田藩の殿様が参勤交代で通ったのもこの街道で、新発田街道ままたは若松街道と呼ばれていた。

 新発田市赤谷と東蒲原郡は地理的に越後でありながら、江戸時代を通して会津領であった。平安時代から数百年に渡る会津統治の歴史は、この地方を会津精神と越後の風俗を併せ持った特殊な土地柄とした。

 街道は三川村から最大の難所とされた諏訪峠を越えて津川町に出て、津川から、ほぼ旧国道四十九号に沿うようにして西会津から会津盆地に入った。その途中に現在も車道が貫通していない束松峠(たばねまつ)がある。昭和の始めまで使用したであろう、茶屋跡のコンクリートが夏草に埋もれようとしていた。また津川町柳新田では民家の前が石敷の会津街道が通っていた。長い歴史を持った街道には、何げない村の辻々に人々が集う生活に密着して生きた時代があった。 

 



 

十三峠街道踏査紀行                             踏査日 1993.11.7           

<米沢街道の沿革>

 古歌に「戸を越えて朝日わたりをいざ白子 森越御館すぎて小阪に」とあるように、越後と出羽置賜郡を結んでいた古道は、沼村(現関川村)から茅峠を越え金丸村に至り、更に荒川を渡り、八口村の越戸(廃村)から田代峠を越えて小渡(朝日わたり)に出たという。古街道沿いの大宮には大宮子易神社があり、今も新潟.山形の妊産婦の信仰が厚い。大永元年(1521年)に米沢を領していた伊達種宗は、悪路と険しい峠越えであった荒川沿いの古道を廃棄して、羽越国境の大里峠に新しい道を切り開いた。この街道は米沢に上杉氏が移封すると、遺領である越後との間に本格的な街道が整備され、交易は飛躍的に増大した。
 
藩政時代には村上城下あるいは新発田城下を起点として、越後の関村から出羽の小国を通り、米沢に至る街道を米沢街道と呼んだ。この街道は関村より連続して峠路となり、米沢まで十三の峠を数えた。別名十三峠街道と呼ばれ、越後と内陸の置賜を結んで、江戸時代の初期には、置賜から織物の原料である青苧(あおそ=カラムシ)や綿.蝋.漆などが、越後からは塩や海産物、四十物、小間物、薬などの日用品類が送られた。幕末ころまでに峠道は敷石で整備された。明治に入ると輸出品として絹の交易が盛んになり、越後と出羽を結ぶシルクロードとなった。

明治11年に鬼県令といわれた三島通庸は、再び荒川に沿って三島新道を開鑿した。通庸は荷車の通行できる道をめざしたが、工事の大半は地元民の苦役によるものであったという。同10年には英国の女性探検家、イサベラ.バードは東北奥地を旅行して、日光から会津街道を通り津川に出て、川船で新潟湊に下っている。翌11年、今度は新潟から米沢街道を北上した。女史は「日本奥地紀行」という著書を残しているが、その頃の東北はほとんど外国人を見たことはなく、物見高く好奇心の強い人々で塀が壊れるというあり様であった。みんなハダシ(素足)であるとも記している。
 
昭和11年に至り、三島道と並行して国鉄米坂線が開通すると、それまで細々として人の往来があった峠路もさびれ、何百年におよんで越後と出羽の内陸を結んだ山越えの街道は衰退した。今では十三峠街道のほとんどの峠に車道が付けられ、旧街道をたどることすら不可能となった。しかし、往時の面影を残す敷石の道。あるいは人知れず草むら埋もれ、自然に還えろうとする道。幾星霜をmcて街道は人と共に栄、人と共に忘れ去られようとしている。

<十三峠踏査行>

 晩秋の霜月、数年来の調査で温めておいた、新潟県関川村の榎峠から山形県小国町朴ノ木峠まで、四つの峠を家族と共に踏査した。                                      
           0.8KM      榎 峠    0.7km    
<榎峠>  榎峠入口 −−−−−−−−−〕 + 〔−−−−−− 沼      
                                       
 越後片貝駅に車を置き、国道113号線を逆行して片貝トンネルに入る。
自動車の凄まじい轟音と排気ガスの洗礼をもろに受け、現代文明の便利な生活がいかに歩くという行為と相反しているかを知る。
トンネルを抜けると榎峠入口の看板がある。国道から急な階段が付けられて、ひと登りすると赤松が混じったコナラの雑木林となる。
 騒がしい車の騒音は山と森に遮蔽され聞えてこない。褐色に黄葉した峠道は、コナラの落ち葉が敷き詰められ、スポンジのようにふかふかで歩きやすい。
落ち葉を踏み締める山靴のカサコソとした音がこころ良く、約20分で榎峠となる。

戊辰の役ではこの峠をはさんで、官軍と奥羽列藩同盟軍が対峙した。
同盟軍側は峠に防御陣塁を築き、官軍と激しい攻防戦争を繰りひろげた。今も胸高程の陣塁が残っているという。当時この峠がいかに重要な戦略拠点であったかうかがえる。峠を下ると杉林の中にひっそりと「南無阿弥陀仏」と記された戊辰戦争戦死者供養塔が建っている。蛇喰弘長寺六十三世良成和尚、明治元年辰仲秋とある。
途中に取り入れが終わった山田が2カ所あって、ほどなく宿駅であった沼部落に着く。

            車道3KM  1.4Km   大里峠   2.7km            
 <大里峠>   沼−−−−−−−−−〕 + 〔−−−−−− 玉川 

沼部落は近年、若ぶな山にスキー場が開設され、街道の宿駅の面影も無くなった。沼川を渡ると舗装道路がスキー場へと大きくカーブしている。旧道はその手前の墓場の坂道を上がる。前方に猿ガ城岩の奇山が見える。その昔、この一帯は越後城氏の採掘による金山があり、沼川には砂金が採れたという。再び舗装道路に出るとスキー場の入り口になるが、肝心の大里峠への分岐道が分からない。田圃が2〜3枚ある小径に入り込んだり、行き過ぎて通行止であったりする。子供達からは「お父さん何時になったら着けるの」と言われる始末。もう昼に近いが畑鉱山跡まで頑張って昼飯にしたい。

見覚えのある溜池の風景が現れて安心する。坂の上に白い柵が見えるので、何だろうと近づいて見ると、ロッジ風の山小屋が建っていた。人の居る気配はなく、軍鶏に似た大きなニワトリが十羽くらい元気に鳴いている。休憩するには落着かないので通り過ぎる。暗い杉林を越えると畑鉱山跡は近いはず。戦前この畑部落には300人程住んで銅を採掘していた。人気の全くない山中に山神社や倒れた墓が未だに残っている。羽越水害の前には二軒の民家があったという。畑鉱山跡には選鉱場か積出場か分からないが、高さ4〜5mのコンクリートの残骸が往時を物語っている。やっと昼飯にありつけたが、ここまでだいぶロス時間を食った。

日没まで5時間を切って、秋の陽はツルベ落としというのに、まだ一つの峠しか越していない。気を取り直して第二の大里峠にかかる。約10分程で柄目木という峠の茶屋跡に着く。ここの地形は峠に向かって緩やかに開け、背丈程の柴木が茂っている。柄目木とは雑木の薮という意味であろう。ふと赤紫のムラサキシキブの小粒な実を見つけ足を止める。
 大里峠の頂上に近づくと、青白い粘土質の地滑りが発生して、谷沢に泥流が大蛇の如く数百メートル押し下っている。大里峠に残る大蛇伝説は、このような地形が生んだのであろうか。
 ある月の夜に蔵の市という座頭が大里峠に差しかかり、さえざえとした月に向かって琵琶を弾いていると、琵琶の音色に誘われたのかどこからともなく「おりの」という美しい女が現れ、私は女川に住む大蛇であるが、今宵はあなたの琵琶に聞き惚れてしまった。私は関の村を沼にして住みたいと思っているが、お礼に貴方にだけ教えてやると市に打ち明けた。しかし、この話しを村人に告げれば貴方の命はない。市は大蛇との約束を破って村人に告げた為、さしもの大蛇も村人の総力を上げた包囲網によって退治された。大蛇は大里峠を七回り半巻き、呻き声は七日七夜に及んだという。 以上が大里峠にまつわる大蛇伝説の一節である。
                                         
大里峠は新潟と山形の県境である、峠の頂上には山神社が祭られている。お堂の中には四つの石像が並んでいた。大里峠は沼からも玉川からも良く刈払いがなされ、快適な峠歩きとなった。山間に傾いた太陽からぶな林に陽があたり山が燃えるように明るくなった。急いで通り過ぎるはもったいなくて、時間のないのも忘れ立ち止まる。手ノ倉沢の車道まで降りてコーヒータイムとする。

                  1.5Km   萱野峠   2.0Km              
<萱野峠>   玉川−−−−−−−〕 + 〔−−−−−−足野水         
                                        
 宿駅玉川部落は米沢藩が越後と接する最も重要な所であった。往時番所であったという店屋で飲み物を仕入れる。ついでに萱野峠までどれくらいか訪ねると、4〜50分位とのこと。"怪しい家族集団"が玉川部落を突ききり、玉川の清流を吊り橋で渡り第三の峠、萱野峠に入る。
 始めは杉林の中で足場が悪いが、敷石の道になると俄然広くなり歩きやすくなる。
よくぞ百年変わらず残っていたものと感激する。折から秋の陽が斜めから差し込み、まだ残る木々の黄葉を明るく照らしている。
 萱野峠は標高278mと高くはないが、峠路が足野水部落側になると踏跡が定かでなくなる。ここからは一度歩いたmc験がないと絶対にたどれない。道なき道を笹やススキを押し分けて行く。途中、3m程の小沢を2本渡ると、左側に朽ちかけた大きな楢の老木がある。以前、玉川部落の70才ぐらいのお爺さんから聞いた話であるが、子供の頃、足野水から玉川にある小学校に、萱野峠を越えて通学したものだという。この楢の木の前を子供達が元気に通った時代も街道にはあった。
                                         
藪道を通り抜けると、植林の道が斜めに合流するが、今この道は車道の工事が進められていた。この道沿いに下降し足野水部落の外れに出るのが、本街道であると資料に記されているが、時間がないので道を横切り、足野水部落の中ほどに出る脇間道を通る。しかしこの道は民家が近づくと、切り倒した木がそのまま放置されはなはだ歩きにくい。予定の時間をかなりオーバーして足野水部落に着く。部落内にも新しい道路が建設中であった。 竣工平成5年10月と記されているが、まだ通行止めである。

車道0.5Km 2.0km  朴ノ木峠  車道5.0km        
 <朴ノ木峠>  足野水−−−−−−−−−〕 +  〔−−−−−−小国      

 第四の峠、朴ノ木峠の入口は足野水部落の長谷川さん宅の庭先をとおる。
峠越えを前にして恥も外聞もなく、路傍に座りこんで最後の腹ごしらいをする。付近の人が物珍しそうにこちらを見ている。日没も押し迫って来ており、我々家族の士気もいやが上にも高揚している。出発はリミットである16時とする。
 しかし出発して数十mも行かない内に藪を突入する道がわからなくなる。二三度行きつ戻りつするが、拉致があかないので、しゃにむに藪こぎをして街道を探す。やっと見つかり、ほっとするのも束の間、また、いくつかの分岐路と藪に阻まれる。
(2年前に通った道だが、細かいところまで覚えていない。)

日没はとうに過ぎてわずかな薄暮の明かりが谷間に漂っている。もう二百三高地の突撃である、切り通しの明るくなっている所が朴ノ木峠だと、檄を飛ばす。
4人は必死に突き進む先に鉄条網ならぬモミジイチゴの棘が待っていた。後で見ると、半ズボンで来た娘の膝頭はこの藪こぎでズタズタに傷ついていた。
 暮れなずんだ朴ノ木峠に立った。思えば家族は何もわからず良く付いて来てくれた。暗くて顔は良く見えないが、ホットした安堵感が伝わる。振り返ればもう殆ど暮れた薄墨色の空に飯豊連峰が浮かんで、北方眼下には小国の町の光が皎々と輝いている。
 朴ノ木峠は小国から車道が峠を越え足野水部落に下っている。旧街道は車道と十文字に交差するようにして、小国健康の森林へと降りて行く。
 昼でも暗い杉の老木があり、何か出てくるかもしれないなどと怖い話しをすると、何かを掴むと安心するのか、瞽女さの角付けよろしく、みんな私のザックの紐にぶら下がって来くる。この車道を下れば小国まで小一時間と読んでいたが、突然道が行き止まりになった。真っ暗な森の先に散策道の看板があるが、こんな道に迷い込んだら一晩中出てこられない。家族の不安な視線を背に、熊のようにウロウロ道を捜し回る。頭の中は記憶の糸を手繰ってバタバタ騒いでいる。
 ようやく記憶の糸もほぐれ、車道をショートする小道を発見した。魑魅魍魎がでてもおかしくない林の中を、4人おし黙って足早に過ぎて本道に出た。暗闇の中に空き家が見えてくる。そこから左手の小径を辿るのが街道であるが、もう薄きみ悪い道を歩く勇気はない。そのまま車道を下り八木沢橋を渡ると、左に神明山公園の上杉神社に行く散策道が近道である。
 約25Km踏破して、十三峠街道最大の宿駅、小国に着いた。誰も待っている人もないが、暖かい町の灯と横川の川風が火照った体に心地良い。ほとんど人通りの途絶えた町を駅に向かう。小国駅到着18;20分。
 米坂線片貝行きの汽車時間が迫っている。急いで駅前のラーメン屋に駆け込み、今日のささやかなフィナーレとする。イッパイきげんの地元の人が、何処から来たのかとしつこく聞いて来る。米沢街道を歩いてきたというと、そんな所あるのかいなとキョトーンとした顔をしている。よく考えると無理もない、真っ暗な夜道をキツネやタヌキの家族でもあるまいし、今、通って来たといっても誰も信じてはくれまい。

 峠行の後、私達夫婦は三日三晩?、いつも藪をこいでいる夢を見続けた。
いつもの山旅の疲れとは少し違う、泥臭いカルチャーな疲れだった。
子供達は、はたしてどんなの夢を見たのだろうか。  
 目まぐるしく変わる現代社会の中で、子供達は勉強々で山野を駆けめぐる姿は見られなくなった。世間には変な家族と思われるかも知れないが、幾山越えた峠行の思い
出は、子供達の記憶に長く残るに違いない。

                                                    完

 


会津街道

白坂集落

五十公野

角石原


山内宿

田の草取り

束松峠






米沢街道


玉川宿

萱野峠

宇津峠


榎峠戊辰供養塔

敷石の道黒沢峠


鷹巣峠





越後国境の峠


万治峠(650m) 不如帰(ホトトギス)啼く峠不老長寿の峠



万治峠1(パノラマ)


この峠から見渡す飯豊連峰に魅了され、毎年、五月初めに訪れるという福島県のお爺さん達に会った。風景を眺めて年甲斐もなく浮き浮き嬉しそう。タラノメ、コシアブラなどの山菜テンプラを戴いた。ハツモノを食べるは東の方向を向いて三回笑うと長生きするという。さすが年の功だ。思もわず食べる前に笑ってしまった。峠には小川芋銭(うせん)の「忘るなよ万治峠のホトトギス」の句碑が建ってある。
ホトトギスはまだかと聞くので、「目に青葉、山ホトトギス、初カツオ」と答えてまた笑った。のどかな不老長寿の峠とでもいおうか。



二の俣峠(約800m)熊の爪あとが道しるべの峠




新潟県岩船郡山北町山熊田集落から山形県東田川郡朝日村大鳥(松ガ崎)集落に抜ける峠。
新緑の頃に峠開きを行っていると聞いたが、待っておられず山熊田集落に向かう。金剛川沿いの林道に山仕事をしている小父さんに道を聞いて、親切に絵地図まで書いてもらう。ゆっくりゆっくり進めと念をおされたが、もう峠に立ったような気分で歩き始める。しかし、絵地図に書いてもらった平坦部は、白一色の雪原で原生林はまだ芽吹きが始まったばかり。目印はブナに刻まれた鉈の切りつけと聞いたが、あるのは熊の爪あとばかりで怖くなって敗退する。
次週、雪辱を期して峠開きに参加する。参加者は約130人という。大きな声で言えないが、山熊田集落から軽トラに分乗し林道終点まで行く。熊の爪あとが道しるべの原生林は、ブナ、トチ、ミズナラの芽吹きの真っ盛り、中でも樹齢三百年余の巨大ブナは山熊田太郎と呼ばれている。二時間ほどで二の俣峠に到着。山形県側に張出した雪庇で遮るものがなく、荒沢ダム、月山、以東岳と新緑の大パノラマが広がる。営林署の指導で峠道には一切、標識、道標、案内板はないという。熊の爪あとがのみが道しるべとなっていた。




越後日本海と出羽置賜を結んだ塩の道(大峠)

塩の道(大峠)


新潟県村上市から朝日村・柳生戸(廃村)を経由して山形県小国町・六か字集落に抜ける全長16Km余の峠。日本海に面した村上市から内陸小国盆地に物資を運んだので、現在は塩の道と呼んでいるが、大峠、蓬生戸(よもぎうど)峠とも呼ぶ。県境で地元集落の交換会が行われている。峠の整備はこの時行っているらしいが、毎年実施していないようである。すぐに夏草が峠道を覆ってしまいうので、道刈りを確認してから踏査するのが良い。戊申戦争の砲台跡などが残っている。




弘法大師空海が九才の時超えた峠(九才坂峠)

九才坂峠


新潟県東蒲原郡上川村土井集落から福島県耶麻郡西会津町野沢字安座集落に抜ける峠。弘法大師が九才の時越した峠というが、荒唐無稽な話の中にも越会(越後と会津)の親密さと優しさが窺える峠である。主に新潟県側の土井地区の人達が馬で九才坂峠を越え、野沢の町に物資調達を目的に利用したという。峠には土井地区の人が祭った祠と若ブナの新緑が優しく広がっていた。福島県側は赤松林の下り道となっており、荷駄を積んだ馬の蹄のあとが残っている。安座側には弘法岩屋という奇岩も見られる。



春まだ遅き残雪の峠(出羽街道・大沢峠)

大沢峠


新潟県岩船郡山北町大沢集落から同郡朝日村葡萄集落に抜ける峠。
数年前、葡萄口の矢葺明神から大沢峠に入った。峠道とおぼしき小道に入ると、湿地帯に木道が敷かれ整備されていた。たやすく大沢峠を踏査するつもりであったが、杉林に入ると昼なお暗い道となり、行けば行くほど暗さが増し、山賊が出そうな雰囲気となる。てっきり植林の道に迷い込んだと思い引き返した。

今回は大沢口から入った。平野では桜前線がようやく訪れた4月半ばで、峠の入口で畑仕事をしていたご夫婦に挨拶した。ご主人は大沢峠の管理をまかされている人で、今年は雪が多く、はたして通られるかどうか自分もまだ確認していないという。まず、お茶を飲んで行けというので、自宅と畑の間にある作業小屋を休憩所風に改造した所で接待される。年2回ほどJRの企画で出羽街道・大沢峠を越えるイベントがあるという。それにしても桜がまだ咲かない山里に、大沢峠を訪ねてきたのがよほどうれしいらしい。

ご夫婦にお礼をのべ峠道に入る。杉林の下は雪消えが遅くほとんど雪で覆われていた。笠松という地名があった。伊勢参りに行った夫の帰りをこの松の下で、今か今かと待ちわびつつ、ついに帰らぬ人となった女性の話という。また、座頭落しという場所は、金持ちの座頭さんをここから突き落とし、金品を奪ったという哀れな話が残っている。もう、葡萄口に出ようとする頃、敷石の道が一部に残っていた。ご主人の話によれば炭焼きなどで敷石を剥がして使ったので、全体として残っているものは少ないという。雪解けの車道に出で、フキノトウを採りながら矢葺明神に向かう。矢葺明神は前九年後三年の役の時、源義家が当地に差し掛かった折、弓矢を集めて神社を奉納し戦勝を祈願した所と聞く。背後には垂直の大岩が屹立し、神々しい雰囲気の場所である。とって返してまた昼なお暗い、残雪の大沢峠を越えた。




山ビルに攻められた血染めの峠(かんちん峠)

 


新潟県東蒲原郡阿賀町雲和田集落から同町払川集落に抜ける峠。
平安時代に創建されたという古刹西山日光寺の旧参詣道を歩いた。コースは雲和田―西山日光寺―払川―かんちん峠―雲和田戻りの周遊コースとした。

雲和田から日光寺旧参詣道に入る。途中の「窪の大ブナ」は千手観音のような枝振りの大樹で堂々とした風格がある。しばらく行くと林道が横断しておりビックリする。林道とほぼ平行する参詣道を歩き日光寺に到着する。ここは桂谷といわれ、柿の大樹が2本あり、静寂たる山中の古寺であったが、車道は仁王像がある門前まで付いており、面影は一変している。金撞堂もこの冬の大雪で倒壊し更地になっていた。

新潟から来た70歳代の4人も同じく雲和田から登り、払川に下るという。中の女性は50年前、ここの庫裏で泊まったという。先々代の住職は庫裏をユースホステルにしていたとか。上品な彼女はさぞかし先進的な女性であったであろう。

私らは払川から"かんちん峠"を越え雲和田に戻るというと、リーダーの男性は"かんちん峠"はどこですかと、5万分地図を出してきた。かんちん峠は、西山日光寺の中興の祖、円順の墓があり、峠を行き交う人は円順のたたく鉦の音をカンチン、カンチンと聞くという。
日光寺から林道で払川に下りる。途中、旧参詣道を歩くとヒメサユリが咲いていた。先の4人も一緒に歩くが、旧参詣道は車道で寸断されたり、藪と化して歩けない場所もある。

払川集落から左折し、かんちん峠に入る。前日の雨で山中は湿気がこもり、人が通らないのか刈払もされていない。山ビルの巣となっているササを掻き分け掻き分け進む。しばらく進むと湿地帯になっている旧田んぼ跡に出た。かんちん峠の道を間違ったことに気が付き、払川まで戻ることにする。山中を脱して足元を調べると、山ビルがスパッツに数十匹まとわりついている。縫い目の中まで入ろうとするヒルを小枝の先で丁寧に取る。

元来た道を大返しで雲和田に戻った。近くにお爺さんがいた。かんちん峠は両部落の老齢化で二年ほど刈り払いしていないという。子供の頃は、払川から雲和田にあった分教場に通う通学路でもあったが、子供がいなくなって久しいという。特に見晴らしの良い峠でもなく、よくこんな所を歩くもんだという顔をしている。

初期の目的を達することができず宿題が残ったが、西山日光寺を廻る由緒ある峠は車の時代でもロマンとして残してもらいたい。最後に身体を調べると足の脛に山ビルが丸々膨れて血を吸っていた。血はしばらく止まらず血糊となって足を伝っていた。

 



福島県側・安座集落



新潟県側・土井集落

 

 


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