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《 青海省の旅 》


中国青海省 「民族と自然」


1.憧れの中国大陸

2.青海省


3.北京への道



回族の人々


1.憧れの中国大陸

 1989年6月に発生した天安門事件は、中国の現代史を語る上で重要な出来事であった。この事件は民主化に理解が深かった、胡耀邦総書記の死去をきっかけとして始まったといわれているが、新生中国の建国(1949年)以来の民主化要求の高まりは、市民を巻き込んで日に日に盛り上りを見せていた。連日、天安門広場を中心にして、人民大衆の晴れやかなデモの波は、テレビをとおして全世界に流されていた。しかし、6月4日に至って突如、人民解放軍の戦車が天安門広場になだれ込み、民主化を叫ぶ人民は戦車の下に圧殺されたのだ。まさか、人民解放軍は中国人民に向かって銃は撃てないと思われていたが、北京の春はまだ遠く、中国人民の希求する、民主化運動の夢は開らかれなかった。これを天安門事件と呼んでいる。
 
この事件より数年前、旧満州(中国東北部)の黒竜江省北部に連なる興安嶺を、踏査する探検隊が、地元新潟県山岳協会より派遣された。やっと未開放地区に日本人旅行者が立ち入りを許可されたばかりであった。その帰国報告会がもたれたので、友達の誘いもあって話を聞きに出かけた。 

 この頃はまだ、中国側の受入れ体制も不十分であり、当所考えていた興安嶺の探検隊とはほど遠いものだったらしい。しかし、今西銀司いらい、おそらく戦後日本人として始めてだろうという、ウスリー江まで達したのは大収穫であった。ソ連との国境の町、黒河(ばくが)に到達した実績と、トナカイに揺られて越えた興安嶺の黄金の樹海の話は、いつかは自分も中国の土を踏んでみたいと、心踊らせ大陸に夢を馳せるには十分であった。その後、前述したような天安門事件が勃発したため、大陸の夢ははかなく頓挫してしまった。

 ようやく憧れの大陸への夢が叶えられたのは、1992年の6月、天安門事件が発生してから僅か3年目であった。中国政府の開放、改革の政策は堅持され、急速に対外開放の波が押し寄せてきたのである。新潟県山岳協会は興安嶺踏査の実績を踏まえて、中国青海省登山協会との姉妹関係を結ぶため、青海省に友好団を送ることになった。幸いにも、この隊に、金魚の糞として参加できることになったのは、まことに幸運であった。


2.青海省

 誠に不勉強であったが、青海省が日本の国土の2倍あるということは、中国へ行ってから始めて知った。地図を見ると青海省は中国西北地区に位置しており、周辺は四川料理で名高い四川省に接して、西蔵(チベット)とは崑崙山脈で遮られている。西方のシルクロードとの境は祁連山脈の山並みを隔てて、甘粛省の省都蘭州から河西回廊をとおり西南北路のシルクロードが敦煌へと続いている。青海省から崑崙を越えて標高2,500m〜4,000mの青蔵高原の西蔵(チベット)へと続いている。
また、青海省は黄河と長江の源流が発する源にあたっており、内陸部では中国最大の塩水湖である青海湖がある。地球規模の中国大陸は、日本の山とは全然比べ物にならないスケールで我々を待っていた。


3.北京への道   
                                
 当初の話では車にテントを積んで、青海高原をキャンプしながら移動し、崑崙山脈の一角の無名峰に登頂するという話しであった。遊牧民の生活や大陸の荒野を疾駆する光景を想像したりして、ワクワクしたが、その後、万里の長城や紫禁城も見学するという、観光の面が大きくなってきて、二兎を得るお大尽の旅ができると、高山病に弱い私は内心やれやれと胸を撫で下ろした。 成田を午後に飛び立った飛行機は、雲上の日本海を越えて渤海湾に入った。日没はとうに過ぎた遼東半島に降下始めているらしかった。かつて大陸の不凍港として栄えた旅順、大連の複雑に入り組んだ地形が微かに見える。機は轟々と翼をゆるがして降下している。アカシヤの大連と歌われた大連市街はまったく見えないが、山の上に建てられたアパートらしき建物をかすめる。北京に直行するとばかり思っていたのだが、機は何事もなく暗闇の大連空港に着陸した。はからずも中国への第一歩を大連に印した訳だ。空港から見える標高5〜600Mの山が203高地だと、だれかが教えてくれる。日露戦争でロシア軍が難攻不落と豪語した、203高地をめぐる旅順要塞の戦闘は、日露戦争の最大の激戦地であった。

 薄暗い空港待合室で、女性係官による入国手続きをする。バーンと勢い良く盲判を押してもらい、呆気なく手続きが完了したのはいかにも中国らしい。

 大連を発ち北京空港に到着したのは夜も12時に近い最終便であった。ようやく北京に着いたにもかかわらず、ペンキを塗った古い木造の空港待合室は人っこ一人おらず、薄暗いロビーは蛍光灯の半分は消灯している。そこにかけて、省エネなのか時間になったのか、また、バチバチ消えて行く始末で心細くなる。どうやら中国側の手違いで迎えが、来ていないようだ。ようやく先方との連絡がついて、車を拾ってホテルに行くことになった。たが、一時はドウナッテいるの、という感じ。いざとなったら寝袋もあるので、空港での野宿を覚悟したのも笑い話ではなかった。(同時刻発の便が2本あって、北京直行便が運休となって、迎えが混乱した)

 ようやく落ちついた先が金明大酒店というホテルである。酒屋というわけでなく、飯店、酒店はホテルという意味である。中国側受入れの中国青海省登山協会の秘書長呉延羲氏が出迎える。我々の正式名は新潟県山岳協会中国・青海省友好訪中団といい、女性一人を含んで総員10名である。会長、名誉会長、役員が5名で、その他、5名の金魚の糞は随行員の肩書が与えられていた。 

次回に続く、はるかなる草原の風





北京の朝



日月山の巡礼




あやしいおじさん



チベットの婦人




羊の群れ



大本営(ベースキャンプ)




砂金採り



チベット族の子供



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